た、老舗《しにせ》を畳んでセロハン会社などをやっていた。
 それは、謙吉に時世をみる眼があったからだろうか、暖簾や、伝統などに執着せずさらっと止めたことは、多くの競争者のなかにあってマネキン人形などつくるよりも、大光斎としては有終の美であったにちがいない。
 そうして、末起は、郊外の邸町で育ち、黒襟の、母や祖母とはそぐわぬ、ミッションスクールに入れられた。ところが、その年の夏ちかいころ、この一家におそろしい悲劇が見舞ったのである。
 とつぜん、なんの予兆も前触れもなしに、意外な人が思わぬ人の手にかかってしまった。
 それまでは、風波といっては別にない家庭で……、ただ、末起の母が結核にかかったこと、従って謙吉には外泊が多くなり、それやこれやで、相良の家は決して明るくはなかった。が、そうかといって、それだけでは殺人の理由にはならない。
 他には、まだ詮索すれば、謙吉の不満もあったが……。
 それは、世の常の養子の例に洩れず、まだおゆうの名義に電話までがなっていることだ。
 ちょうど四年まえ、五月の末の鬱陶しい雨の朝だった。おゆうの病室になっている洋間のなかで、おゆうは、心臓を刺されて悶える色もなく、かすかに血を吐いただけで眠るように死んでいた。そして傍らには、祖母のまきが面彫りをにぎって、返り血に染み失神していたのである。
 しかしそれなり、祖母の意識は旧《もと》どおりにならなかった。というよりも、おそらく一時の激情から醒め娘の死体を見、はっと、我にかえったときの衝撃であろうか、それなり、手足もうごけず口も利けず、ただ見、聴くだけの屍のようになってしまった。
 その室は、まきの口から病室になったもので、可愛いいおゆうの病状を悪化させまいとして、扉に鍵をおろし謙吉を遠ざけていた。その夜も、鍵は鍵孔に差しこまれたままで、もちろん、合鍵でも開けられぬ状態にあった。しかも、庭に面した窓はかたく鎖され、湿った窓したの土にも足跡はない。
 そうして、すべてがまきを指し、だが、そうなっても、なぜ後家を守ってまでも育てあげた、一人娘を殺したかという動機には、いくら探っても適確なものがない。女中の証言には、その前夜口論があったという。……さまで、悪くないおゆうには謙吉からはなれている、夜々のことが時々佗びしくなり、そういうときには、なにかにつけ辛く母に当り、その夜も、まきの賺《なだ》める声を廊下で聴いたというのだ。心理学者は母性愛と並行する母性憎があるという。その愛憎並存を老齢のまきにあてて、この事件はますます疑雲におおわれてしまった。
 老齢によくある耗弱の発作だろうか。そうとすれば、まさにその後のまきは酬いだといってもいいのだ。
 手も、足もうごかず、口も利けず、いずれは車椅子のなかで一生を終るだろうが、そうして、ただ呼吸をし、ぼんやりと見るまきの様は正視の出来ないものだ。刑罰か――死ぬに死ねない、惨苦を味わいながら余生を送らねばならぬのは……。
 末起も、それについて折ふし考えさせられた。
(こんな良いお祖母さまが、そんなおおそれたことをするとは、どうしても、そうは私には思えない。口が利けたら、手足がうごいてものが書けたら……。きっと、お祖母さまの口から、途方もない事実《こと》が出るだろう。こんな良い人の、お祖母さまが悪魔になれるもんか)
 末起は、ひとりでそういうように、決めていた。肉身が、憎み合ったらそりゃひどいというけれども、なんで、二人のあいだにそんな事実があろう※[#感嘆符疑問符、1−8−78] 自分への、家庭での愛を二分していた二人だけにいっそう悲しいことだった。
 しかし、末起には覗き込もうにも、暈やっとした大人の世界である。
 やがて、末起にも訪れるものが来た。童女期から、大人へ移ろうとする境界に立って、郷愁のような遣る瀬なさ、あまい昏惑のなかでも、末起はときめくようなこともない。
 春の曙光は、お祖母さまのことで暗く色づけられていた。童心は、やがて淡くなり、薄れるように去るだろう……。しかし、お祖母さまのことだけは、永遠に残るにちがいない……。そうして、末起は病む薔薇のように、思春期を暗い心で漂っていた。
 ところが、それから四、五ヶ月経ったころふと、祖母の眼に異様なものを発見したのである。
 それは、瞬きをときどき止めることで、精いっぱいに、※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]らきながら瞬くまいとする努力は、必死に末起の注意をひき、認めてもらおうとするらしい。
 その表出は、祖母にあらわれた、たった一つのものであった。しかしそれが、悦びか、悲しみか、慾求の表示でもあるのか――末起にもそこまでは分らなかった。ただ、お祖母さまの身体中でたった一つの、うごく筋肉である眼筋をとおして行われる……。見えざる口、聴えざる言語であ
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