拡がっていった。すると、不思議な事には、頬の窪みにすうっと明るみが差し、細やかな襞《ひだ》や陰影が底を不気味に揺り上げてきて、わずかに耳の付け根や、生え際のあたりにだけ、病んだような微妙な線が残されるばかりになった。そうして、隆起したくびれ肉からは、波打つような感覚が起ってきて、異様に唆《そそ》りがちな、まるで繻子《しゅす》のようにキメの細かい、逞《たくま》しい肉付きの腰みたいに見えた。滝人は、もうどうすることもできず、見まいとして瞼《まぶた》を閉じた。すると、また暗黒の中で、それが恐ろしくも誇張された容《かたち》となって現われ、今や十四郎のありし日の姿が、その顔の中に永久住んでゆくかのごとく思われるのだった。そうした、とうてい思いもつかなかった喜ばしさの中で、なぜか滝人は、ぞくぞく震えていたのである。身も心も時江に奪われて、十四郎そっくりの写像が、眼前にちらつくのを見ると、そうして生れた新しい恋愛に、彼女の心は、一も二もなく煽り立てられた。滝人は、もう前後が判らなくなってしまったが、絶えずその間も、熱に魘《うな》されて見る、幻影のようなものがつき纏《まと》っていて、周囲の世界が、しだいに彼女から飛びさるように思われると、そのまま滝人は、狂わしい肉情とともに取り残されてしまったのである。が、その時、残忍な狡猾な微笑が、頬に泛《うか》び上がってきて、滝人の顔は、以前どおりの険しさに変ってしまった。それはちょうど、悪狡《わるがしこ》い獣が耳を垂れ、相手が近づくのを待ち構えているようであった。ところが、その図星が当って、鉄漿《はぐろ》をつけ終り、ふと滝人の顔を見ると、その瞬間時江は、喪心したようにクタクタになってしまった。彼女には、もうとりつく島もないではないか。嫂《あね》の気持を緩和しようとしたせっかくの試みが、それでさえいけないのだったら、いったい彼女はどうしたらいいのだろう。いつか、兄夫婦の間に始まるであろう争《いさか》いの余波が、彼女にどのような惨苦をもたらすか、知れたものではないのである。すると時江には、もうこのうえ手iと云って、ただ子供のように嫂《あね》の膝に取り縋《すが》り、哀訴を繰り返すよりほかにないのだった。
「それではお嫂《ねえ》様、私に教えてちょうだい。そのお顔を柔らかにしてから、私がどうすればいいのか、教えてちょうだい」
「ああ十四郎、貴方はそこに……」と時江の声が、耳に入ったのか入らぬのか、滝人の眼に、突然狂ったような光が瞬《またた》いた。すると、(以下七四字削除)本能的にすり抜けたが、(以下六〇一字削除)異様な熱ばみの去らない頭の中で、絶えず皮質をガンガン鳴り響かせているものがあった。滝人は、いつのまにここへ来てしまったのか、自分でも判らないのであるが、そうして、永いこと御霊所の前で髪を乱し瞼を腫れぼったくして、居睡っているように突っ立っていた。
三、弾左谿《だんざだに》炎上
ついにあの男が、鵜飼十四郎に決定されたばかりでなく、**********************、滝人はまるで夢みるような心持で、自分の願望のすべてが充されつくしたのを知った。そして、しばらく月光を浴びて、御霊所の扉に凭《もた》れ掛かっているうちに、しだいとあの異様な熱ばみが去り、ようやく彼女の心に、仄《ほの》白い曙《あけぼの》の光が訪れてきた。それはちょうど、あの獣的な亢奮のために、狂い出したように動き続けていた針が、だんだんに振幅を狭めてきて、最後にぴたりとまっすぐに停まってしまったようなものだった。すると、その茫漠とした意識の中から、なんとなく氷でも踏んでいるかのような、鬱然とした危懼《きぐ》が現われてきた。と云うのは、最初に高代という言葉を聴いたのは、まだ十四郎が意識のはっきりせぬ頃の事であり、その後に時江が耳にしたのも、御霊所の中であって、やはり十四郎は、同じ迷濛状態にあったのではないか。それは、たしかに一脈の驚駭だった。そうして、滝人の手は、怯《おび》やかされるまま、御霊所の扉に引き摺られていったのである。
扉を開くと滝人の鼻には、妙にひしむような、闇の香りに混じって、黴《かび》臭い、紙の匂いが触れてきた。彼女は入口にしばらく佇《たたず》んでいたが、気づいて、頭上の桟窓をずらせた。すると、乳色をした清々《すがすが》しい光線が差し込んでき、その反映で、闇の中から、梁《はり》も壁も、妙に白ちゃけた色で現われてきて、その横側がまた、艶々《つやつや》と黝《くろ》ずんで光っているのだった。眼の前には、二本の柱で区画された一段高い内陣があって、見ていると、その闇が、しだいにせり上がって行くかと思われるほど、框《かまち》は一面に、真白な月光を浴びていた。またその奥には、さまざまな形をした神鏡が、幾つとなく、気味悪い眼球のように閃《きらめ》いているが、背後の鴨居には、祝詞《のりと》を書きつらねた覚え紙が、隙間なく貼り付けられていて、なかには莫大な、信徒の寄進高を記したものなどもあった。滝人は、そこに手燭を発見したので、ようやく仄《ほの》暗い、黄ばんだ光が室内に漂いはじめた。しかし、滝人には、一つの懸念があって、明るくなるとすぐに、内陣の神鏡を一つ持ってきた。そして、机を二つばかり重ねて、その上に神鏡を据え、しきりと何かの高さを、計測しているようであったが、やがて不安げに頷《うなず》くと、背後の祝詞文に明かりを向けた。そして、自分は神鏡の中を覗き込んだのだが、その瞬間、彼女の膝がガクリと落ちて、全身がワナワナ戦《おのの》きだした。
その神鏡の位置というのは、常に行《ぎょう》を行う際に、くらが占めている座席であり、かつまたその高さが彼女の眼の位置だとすれば、当然それと対座している十四郎との関係に、なにか滝人を、使嗾《しそう》するものがあったに相違ない。事実、滝人はそれによって、今度こそは全然|償《つぐの》う余地のない、絶望のまっただ中に叩き込まれてしまった。それが、滝人の疑惑に対して、じつに、最終の解答を応えたのである。それから滝人は、刻々血が失われていくような、真蒼な顔をしながら、その結論を、心の中の十四郎に云い聴かせはじめた。
「私は、自分の浅墓《あさはか》な悦《よろこ》びを考えると、じつに無限と云っていいくらい、胸の中が憐憫《あわれみ》で一杯になってしまうのです。お怨みしますわ――この酷《ひど》い誓言を私に要求したのが、ほかならぬ貴方《あなた》なのですから。あの獣臭い骸《むくろ》だけを私に残しておいて、いずこかへ飛び去っておしまいになり、そのうえご自分の抜骸《ぬけがら》に、こんな意地悪い仕草《しぐさ》をさせるなんて、あまりと云えば皮肉ではございませんか。今までも、ときおり貴方の小さな跫音《あしおと》を聴いて、私は何度か不安になりましたけれども、いよいよ今日という今日は、貴方の影法師をしっかと見てとりました。救護所で発した高代という言葉は、まさしく不意の明るみが因《もと》で、鵜飼の腸綿《ひゃくひろ》から放たれたものに相違ございません。そして、いま時江さんが耳にしたものは、貴方が催眠中、お母様の瞳に映った文字を読んだからなのです。ねえこれと同じ例が、仏蘭西《フランス》の心理学者ジャストローの実験中にあるではございませんか。催眠中には、瞳に映った一ミリほどの文字でも読むことができるのです。振り返って、背後を御覧あそばせ。『反玉足玉《かえしたまざたちたま》高代道反玉《たかしろのみちあかしたま》』とある――その中の高代《たかしろ》の二字が、お母さまの瞳に映ったのですけど、文字力のない現在の十四郎には、それを高代《たかよ》と読む以外に術《すべ》はなかったのです。ねえ、そうでございましょう。心の中でそれと判ってはいても、意地悪な貴方は、わざと私にはそれと告げず、さんざん弄《もてあそ》んだ末に……、ええ判りましたとも、あの十四郎には、やはり以前の貴方が住んでいるということも。そして、現在生きているはずの鵜飼邦太郎は、あの時、貴方の顔に似て、死んで行ったということも……」
それから滝人は、逃げるようにして御霊所を出たが、しばらく扉際に立って、濡れた両手を顔に押し当てていた。彼女は、世界中の嘲りを、いまや一身にうけているような気がした。運命とは元来そうしたものだとは云え、あの逆転はあまりに咄嗟《とっさ》であり、あまりに芝居染みて仕組まれているではないか。そして、先刻《さっき》の獣的な歓喜は、またなんという皮肉な前狂言だったのであろう。滝人は、知らぬ男の前で着物を脱がされたような、恥かしさと怖ろしさで一杯になりながら、月夜の庭を不確かな足どりで、当てどもなく彷徨《さまよ》いはじめた。舌が真白に乾いて、胸は上から、重いもので圧《おさ》れているように重たかった。頭の中で、ズキリズキリと疼き上げているものがあって、絶えずたぎっているような血が、顳※[#「※」は「需+頁」、141−3]《こめかみ》から心臓にかけて、循環しているのが判るような気がした。滝人は、絶えず落ち着こうと努めていた。そして、何か忘れてはならないものを、忘れているのではないかと思ったり、突然自分には、とうてい判断がつかぬような、観念に打たれて驚かされることもあった。しかし、そういう無自覚の間にも、絶えず物を考えようとする力が、藻掻《もが》き出てくるのだったが、それはほんの瞬間であって、再び鈍い、無意識の中に沈んでしまうのだった。そうしているうちに、湯気のようなものを裾《すそ》暖かに感じたかと思うと、突然烈しい苦痛が下から突き上げてきた。彼女はいつのまにか土間の閾《しきい》を踏み跨《また》いでいて、その両足の下に、仔鹿《かよ》の生々しい血首をみた。その瞬間一つの恐ろしい観念が、滝人を波濤《はとう》のように圧倒してしまった。身にも心にも、均衡を失ってしまって、思わず投げ出されたように、地面に這いつくばった。そして、頬を草の根にすりつけ、冷々《ひえびえ》とした地の息を嗅ぎながら、絶えず襲い掛かってくる、あの危険な囁きから逃れようと悶《もだ》えた。
そこには、腐爛しかかった仔鹿《かよ》の首から、排泄物のような異臭が洩れていて、それがあの堪えられぬ、産の苦痛を滝人に思い出させた。しかし、現在の十四郎が、真実の変貌という事になってしまうと、あの物凄い遊戯をしてまで、時江に植えつけた美しい幻像は、いったいどうなってしまうのであろう。二人の十四郎――そこで滝人は、たちまちどうにも抜き差しのならない疑題に直面してしまった。すると、しんしんとあの歓喜が舞い戻ってきて、暗い光明のない闇の中から、パッと差し込んできた一条の光があった。滝人は、まるで夢魔に襲われたような慌《あわ》てかたで、すっと立ち上がった。この孤独な地峡の中で、甲斐《かい》のある生存を保っていくには、何よりあの腫物《はれもの》を除かねばならない。あの美醜の両面は、それぞれに十四郎の、二つの人生を代表している。けれども、その二つを心の上に重ねてゆくとするには、あまりに鉄漿《はぐろ》をつけた時江が、十四郎そのものであり(以下二三七字削除)現在の十四郎には生存を拒まねばならない――その物狂わしさは、倒錯などというよりも、むしろ心の大奇観だったであろう。まったく、この不思議な貞操のために、滝人はある一つの、恐ろしい決意を胸に固め、十四郎のために、十四郎を殺さねばならなくなってしまったのである。しかし、そうなると、たとえ十四郎だけを除いたにしても、それに続いて、なお喜惣が舌なめずりしているのを考えねばならなかった。さらにその二人が除かれたにしても、その間の関係を知り尽している母のくら――いやその舌が、なおその背後に待ち構えているのも忘れてはならない。すると、その三重の人物が、滝人の頭の中で絡み合ってきて、それをどういうふうに按配《あんばい》したらいいのか――そうしてしばらくのあいだ、それぞれに割付けねばならない、役割の事で悩まねばならなかった。しかしそのようにいろいろな考えが、成長しては積り重なってゆくうちに、どれもこれも纏《ま
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