れても、いっこう眼をくれようともせずケロリとしていて、ついぞいま自分が云った言葉を、忘れ去ってしまったようにみえた。けれども、その不思議な変転も、ついにその場限りの、精神的な狂いとだけでは、すまされなくなってしまった。なぜならそこには、滝人の神経が魔法の風のように働きかけていたからである。
はたして、それから一時間ほど後になると、寝入った稚市《ちごいち》をそっとしておいて、滝人は時江の部屋を訪れた。その部屋は、十四郎夫婦の居間のある棟とは別になっているが、一方の端が、共通した蚕《さん》室になって繋がっているために、外見は一つのもののように見えた。そして、その方の棟には、くらと時江が一つの寝間に、喜惣は涼しい場所とばかりから、牛小屋に接した、破《わ》れ羽目《はめ》のかたわらで眠るのが常であった。しかし、その時、滝人の顔を見上げて、時江がハッと胸を躍らせた――というのはほかでもない、常になく、異様な冷たさに打たれたからである。いつもの――時江の顔を見ては、妙に舌舐めずりするような気振りなどは、微塵も見られなかったばかりでなく、その全身が、ただ一途の願望だけに、化してしまったのではないかと思われたほど、むしろそれには、人間ばなれのした薄気味悪さがあった。
「ねえ時江さん」と滝人は座に着くと、相手を正面に見据えてきりだした。「貴女《あなた》は、なにか私に隠している事があるんじゃないの。現に、あの鬼猪殃々《おにやえもぐら》の原がそうでしょう。雑草でさえ、あんな醜い形になったというのも、もともとは、死んだ人の胸の中から生えたからですわ。サア事によったら、貴女だって胸の中の怖ろしい秘密を、形に現わしているかもしれませんのよ」
「何を云うんですの、お嫂《ねえ》さん。私がどうしてそんな事を」と時江は、激しく首を振ったが、知らぬまに、手が、自分の胸をギュッと握りしめていた。
「そりゃまた、どうしてなんです」と滝人はすかさず、冷静そのもののように問い返した。「私はただ、どうして貴女が高代という女の名を知っているのか、それを聴きたいだけなの」
すると、そう云われた瞬間だけ、時江には、はっきりとした戦《おのの》きが現われた。しかし、その衝動が、彼女の魂を形もあまさず掠《さら》ってしまって、やがて鈍い目付きになり、それは、眠っている子供のように見えた。滝人は、その様子に残忍な快感でも感じているかのように、
「時江さん、私は穿鑿《せんさく》が過ぎるかもしれません。けれども私には、やむにやまれぬものがあって、それを仕遂げるまでは、けっしてこの手を離さないつもりなのです。と云って、それが当《あて》推量ではもちろんないのですよ。貴女は、自分自身では気がつかないのでしょうけども、心の動きを、幾何《きか》で引く線や図などで、現わすような性癖があるのです。それを、難しく云えば数形式型《ナンバー・フォームス》といって、反面にはなにかにつけて、それを他のものに、結びつける傾向が強くなってゆきます。先刻《さっき》も、最初に仔鹿《かよ》の形を見て、それを稚市《ちごいち》に連想しましたわね。ところが、その仔鹿《かよ》の形が、また別の連想を貴女に強いてきて、何かそれ以外にも、あるぞあるぞ――と、まるで気味悪い内語みたいなものを囁《ささや》いてきました。つまり仔鹿《かよ》という一つの音《おん》が、なにか貴女にとって、重大な一つものの中に含まれているからです。しかし、すぐにはおいそれと、はっきりしたものが、泛《うか》んではこないので、だんだんに焦《じ》れだしてくると、いつのまにか意識の表面を、雲の峰みたいなものが、ムクムク浮動してくるのでした。そして、それが尻尾だけであったり、捉えてみると別のものだったりして、なにしろ一つの概念だけはあるのですが、どうにもそのはっきりしたものを掴《つか》み上げることができず、ただいたずらに宙を摸索《まさぐ》って、それから烏とか、山猫とか屍虫《しでむし》とかいうような、生物《いきもの》の名を並べはじめたのです。すると、その時お母さまが、仔鹿《かよ》の生眼《いきめ》のことを口にすると、十四郎がそれに、たぶん熊鷹に抉《えぐ》り抜かれたんだろう――と云いましたわね。それが重大な暗示だったのです。そのひと叩きに弾かれて、意識の底からポンと反動で、飛び出してきたものがあったはずです。つまり、それがたか[#「たか」に傍点]にかよ[#「かよ」に傍点]――高代ではありませんか。ねえ時江さん、確かにそうだったでしょう。いいえ、当推量なもんですか。それでは、綺麗な斑のある片身を、なぜ、十四郎には金輪際《こんりんざい》とれぬ――と貴女は云ったのです?」
もうその時には、時江は顔を上げることもできなくなり、滝人の不思議な精神力に、すっかり圧倒されてしまった。滝人は、そうして勝利の確信を決《き》め、眼前に動けなくなった獲物があるのを見ると、それを弄《もてあそ》びたいような快感がつのってきた。
「それが時江さん、貴女からはとうてい取り離せない、精神的な病気なのです。貴女はそれを聴くと、あの仔鹿《かよ》の胴体で、一つの文字を描いてしまったのです。なぜなら、そういう数形式型《ナンバー・フォームス》の人達について、ここに面白い話がありますわ。それはブリッジの名手と云われた、クヌト・ライデンの逸話なのです。私は、少しもそのゲームのことについては知りませんけど、なんでも終り頃になって、スペードの1で、勝敗が決まってしまうような局面になったのですが、もちろんライデンにはその札《ふだ》はないので、むしろ自暴《やけ》気味だったのでしょう、もし、俺《おれ》が持っているんだったら、心臓を刳《えぐ》り抜いてみせる――と云ったそうなのです。すると、その一座の一人が、ふと前にある、置灯《スタンド》の台に眼をやったのを見ると、そこでライデンは、ポンと札を卓上に投げ捨て、君が勝ったと、その一人を指摘したという話があります。なぜなら、スペードから心臓《ハート》の形をとってしまえば、残ったものが、てっきり卓子灯《スタンド》の台としか思えないじゃありませんか。そこで時江さん、貴女にも、ちょうどそれと同じものが仔鹿《かよ》の頸《くび》にあったのです。熊鷹に抉り抜かれた――というあの一言が、鹿子色をした頸先のほうに、一つの孔《あな》のような斑《まだら》を作ってしまったのでしたね。ですから、その全体が、高《たか》の字を半分から截《た》ち割ったように思われて、いまでは十四郎が、どうしても遇うことのできない、高代という女の名が連想されてきたのでした。そうすると時江さん……」と滝人は、双眼に異様な熱情を罩《こ》め、野獣のような吐息を吐きながら、時江に迫った。
「貴女には、けっして知るはずのない隧道《とんねる》の秘密を、いったいどうして知ったのです。十四郎が話したのでさえなければ……。ああ、あの男に、もしやすると、鵜飼の意識が蘇《よみがえ》ってきたのではないかしら」
そうして、滝人の心の中で、いろいろなものが絡《から》みはじめてくると、それまで数年間の疲労が一時に発し、もはや座にいたたまれぬような眩暈《めまい》を覚えてきた。すると、時江は怯々《おずおず》と顔を上げ、低いかすれたような声で、嫂《あね》に云った。
「それでは、何もかもお話しいたしますが、お嫂《ねえ》さま、貴女それを、兄にだまっていて頂けますか。実を云いますと、いつも御霊《みたま》所の中で、母と対座しておりますうちに、兄は時折、その高代という言葉を口にするのです。私はそれを聴くと、もしやお嫂《ねえ》さま以外にも、兄の胸の中にある人がいるのではないかと考えられて、先刻《さっき》も先刻、大兄の仕打ちがあまり酷《ひど》いと思われたものですから、つい私、むらむらと口にしてしまったのです。ねえお嫂《ねえ》さま、もうこの谿間《たにあい》に来てしまった以上は、なんと云っても、遠い別世界の話なんでございますからね。どうか、お怒りにならないでくださいましな。もしかして兄の耳に、私のいらず口でも入った日には、ほんとうにそれこそ、私、どんな目に遇わされないとも限りませんわ。ねえ、それだけは固い約束をして、ねえお嫂さま」
と兄の粗暴な復讐《ふくしゅう》を懼《おそ》れて、時江はひたすら哀願するのだったが、なぜかその時は、いったん下りかけた滝人の頸《くび》が、中途でハタと止まってしまった。滝人はじっと眼を瞑《と》じたまま、それなり動かなくなってしまったのである。生涯謎のままで終るかと思われていたあの疑惑にも、ついに解け去る時機が訪れてきた。今の時江の言葉を解釈してみると、十四郎――いや鵜飼邦太郎が、御霊所の中で鎮魂帰神などと称し、母の眼を見ながら対座しているということは、以前にも、信徒である限り必ずそうしたものである。もちろんそれは、一種催眠誘示の手法に相違ないのだから、その間は、潜在意識が飛び出すのに、おそらく絶好な時機ではないだろうか――。そうして、彼女が第一の人生に、終止符を打つことができたとすると、当然鵜飼邦太郎の存在が、いよいよ幻から現実に移されねばならない。となると、またそこには、なにか充されていない空虚なものができてしまって、それが頭の皮質に、ガンガンと鳴り響いてくるのだった。ところが、そのとき滝人の頭の中に、ふと一つの観念が閃くと、知らず知らず残忍な微笑《ほほえみ》が、口の端を揺るがしはじめた。突然、彼女の背後から現われ出たものは、華麗な衣裳こそ身につけているが、その顔は二目《ふため》と見られぬ、醜い邪悪なものだった。それが、いまも見るように、滝人の頸を中途で停めてしまったのである。すると、時江は嫂《あね》の素振りにいよいよ心元なく、ためらいながら吃《ども》りながらも、哀訴を続けた。
「後生ですわ、お嫂《ねえ》さま。どうかわたしをかばってくださいまし。私を、もうそんなに苦しめないで、承知してくださいましな」
「いいえいいえ、私にはできません。それはどうあってもできないことです」と滝人が、無性にいきばって首を振っているうちに、あの焔に勢いを添えようとするものが、いよいよ猛り立ってきた。すると、時江の声が、それなりちょっと杜絶えたかと思われたが、やがてぞくぞくと震えだしてきて不審なことに、彼女は酔いしれたように上気してしまった。
「いいえ、もうおっしゃらないでください。私、お嫂《ねえ》さまに、一つの証を立てますわ。鉄漿《はぐろ》をつけます。かねてお嫂さまのお望みどおりに、私、鉄漿をつけますわ。そして、お嫂さまと一緒に、どこへなりと、お好きな夢の国にまいりますから……」
そして、相手が何も云わぬのに、独《ひと》り合点《がてん》して、いつか滝人が忘れていった、早鉄漿《はやがね》の壺に鏡を取り出してきた。そして立膝《たてひざ》にした両足を広く踏み開き、小指にちょんぴりとつけた黒い脂《あぶら》で、前歯に軽く触《さわ》ると、時江はその一点の斑《まだら》にさえ、自分の裸身を見るような驚異を感じた。それが秘密な部分にある黒子《ほくろ》みたいで、ちょっと指先で持ち上げたいような、可笑《おか》しさはあったけれども、やがてその黒い斑点が拡がりゆくにつれて、時江はハッハッと獣のような息を吐きはじめ、腰から上をもじもじ廻しはじめた。のみならず、一本芯の洋燈《ランプ》は仄暗いけれども、その光が、額から頬にかけて流れている所は、キメをいっそう細やかに見せていた。もう時江は、自分自身でさえも、その媚《なま》めいた空気に魅せられてしまって、鉄漿《かね》をつける小指の動きを、どうにも止めようがなくなってしまった。しかし、滝人の眼から見ると、そこには魔法のような不思議な変化が現われていったのである。
と云うのは、白と灰色とで段だらにした格子の間を、真黒に塗り潰してしまうと、その灰色がまったく白ちゃけてしまうのであるが、この場合も、それと同じ色彩の対比であろうか。皓歯《しらは》の輝きが一つ一つ消え行くにつれて、それに取って代った天鵞絨《びろうど》のような斑《まだら》が、みるみる顔一面に滲み
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