れながら、じっとあの対立を保っていてくれるのです。しかし、ここに問題があると云うのは、もしいつかの日に――わけても、私が時江さんを占めることの出来た、その後にやって来たとしたらなおさらですが――そうしてあの男が、貴方の空骸《なきがら》に決まってしまうのでしたら、いったいその時、私はどうなってしまうのでしょう。せっかく貴方の幻影という衝動に追われて、ここまでからくもやってきたのです。それをまた、あの妖怪に引き戻されてしまうなんて、まあなんという、憐れな惨《みじ》めな事でしょう。そうなったら、耐え忍んで、その悩みにじっと堪えるか、それともその苦しみが私をあまり圧迫するようなら、より以上の烈しい力で、いっそ投げ捨ててしまうまでのことです。同時に、それは喜惣もですわ。ですから、そう思うと、私が時江さんに近づけないということが、あるいはさきざき幸福なのかもしれませんわね。まったく、私という女は、一つの解け難い、結び目の中にからみ込んでいるのです。ですから、悩みというものが、もしも鉄のような、神経の持主だけに背負《しょ》われるものだとすれば、当然その反語として、いつか私は、それに似た者になってしまうかもしれません。いいえ、それは言葉だけの真似事ですわ。私の身体こそ、いつも病んだような、呻《うめ》きを立ててはおりますけれど、心だけは貴方の幻で、そりゃ飽《く》ちいほどに……」
そこまで云うと、滝人の語尾がすうっと凋《しぼ》んで、彼女は身体も心も、そのありたけを愛撫の中に投げ出した。まるで狂ったようになって、頬の瘤の面に摺りつけたり、両手で撫で擦《さす》っているうちに、爪の表まで紅《あか》くなってきて、終いにはその先から、ポタリポタリと血の滴がしたたりはじめた。そうして、その衝動がまったくおさまった頃には、陽がすっかり翳《かげ》っていて、はや夕暮の霧が、峰から沼の面に降りはじめていた。すると滝人は、稚市をいつもの籠に入れて、しっかりと肩につけ、再び人瘤を名残り惜しそうに顧《かえり》みた。
「それでは、今日はこれでお暇《いとま》いたしますわ。でも御安心くださいませ。容色《みめかたち》の点では、もう見る影もございませんけれど、身体だけは、このとおり、すこやかでございますから」
その時、あの滅入るような黄昏が始まっていた。八ヶ岳よりの、黒い一|刷毛《はけ》の層雲の間から、一条の金色をした光が落ちていて、それは、瀑布をかけたような壮観だった。そして、その余映《よば》えに、騎西家の建物の片側だけが、わずかに照り映えて、その裏側のほうからまったくの闇が、静かに微光の領域を狭めてゆく。しかし、滝人が家近くまで来ると、どこからとなく、肉の焦げる匂いが漂ってき、今日も猟があり、兄弟二人も、家に戻っているのを知った。十四郎兄弟は、陥穽《おとしあな》を秘かに設《しつら》えて置いて、猟人も及ばぬ豊猟を常に占めていたのである。
騎西家の建物は、充分時代の汚点《しみ》で喰い荒され、外面はすでにボロボロに欠け落ちていて、わずかにその偉容だけが、崩壊を防ぎ止めているように思われた。そして、全体が漆《うるし》のような光を帯び、天井などは貫木《たるき》も板も、判らぬほどに煤けてしまっていて、どこをのぞいてみても、朽木の匂いがぷんぷん香ってくるのだった。しかし、戸口を跨《また》いだとき、滝人は生暖かい裾風を感じて、思わず飛び退《すさ》った。それは、いつも忌《い》とわしい、死産の記憶を蘇《よみがえ》らせるからであった。しかし、そこにあったのは眼窩《がんか》が双方|抉《えぐ》られていて、そこから真黒な血が吹き出ている仔鹿《かよ》(かよ―上州西北部の方言)の首で、閾《しきい》のかなたからは、燃え木のはぜるような、脂肪の飛ぶ音が聴えてきた。そして、板戸一重の土間の中では、おそらく太古の狩猟時代を髣髴《ほうふつ》とさせる――まったく退化しきってしまって、兇暴一途な食欲だけに化した、人達が居並んでいた。土間の中央には、大きな摺鉢《すりばち》形をした窪みがあって、そこには丸薪《まるまき》や、引き剥がした樹皮などが山のように積まれ、それが、先刻《さっき》から燻《くすぶ》りつづけているのである。そして、太い刺叉《さすまた》が二本、その両側に立てられていて、その上の鉄棒には、首を打ち落された仔鹿《かよ》の胴体が結びつけられてあった。その仔鹿《かよ》は、まだ一歳たらずの犬ほどの大きさのもので、穽《わな》に挾まれた前足の二本が、関節の所で砕かれてい、かえって反対のほうに曲ったまま硬ばっていた。それに、背から下腹にかけてちょうど胴体の中央辺に、大きな斑《まだら》が一つあり、頸筋にも胴体との境に小さな斑が近接していて、ちょうど縞のように見えるものが一つあった。けれども、その二つだけは、奇妙にも、血や泥で汚されてはいなかった。しかし、それ以外の鹿子《かのこ》色をした皮膚は、ドス黒くこびりついた、血に塗《まみ》れていて、ことに半面のほうは、逃げようと悶えながら、岩壁に摺りつけたせいか、繊維の中にまで泥が浸み込み、絶えず脂《あぶら》とも、血ともつかぬようなものが、滴《したた》り落ちていた。それであるから、仔鹿《かよ》の形は、ちょうど置燈籠を、半分から截《た》ち割ったようであって、いくぶんそれが、陰惨な色調を救っているように思えた。
十四郎は、熱した脂肪の跳《は》ねを、右眼にうけたと見えて、額から斜《はす》かいに繃帯していたが、そのかたわらに仔鹿を挾んで、くら、喜惣、滝人の三人が、寝転んでいる時江と向き合っていた。するとにわかに松|薪《まき》が燃え上がり、室《へや》中が銅色に染まって明るくなった。そして、暗闇があった所から、染めたくらの髪や舌舐《したな》めずりしている喜惣の真赤な口などが、異様にちらつきだしたかと思うと、仔鹿の胴体も、その熱のためにむくむく膨れてきて、たまらない臭気が食道から吹きはじめると、腿《もも》の二山の間からも、透き通った、なんとも知れぬ臓腑の先が垂れ下がってきた。それを見ると、十四郎は鉄弓を穏やかに廻しながら、
「おい、肝《きも》を喰うとよいぞ。もう蒸れたろうからな。あの病いにはそれが一番ええそうなんじゃ」と時江に云ったが、彼女はチラリと相手の顔を見たのみで、答えようともしなかった。それは、いかにも無意識のようであって、彼女は、自分の夢に浸りきっていて、ものを云うのも覚《おぼ》つかなげな様子だった。ところが、そうしてしばらく、毛の焦げるような匂いが漂い、チリチリ捲き縮まってゆく、音のみが静寂を支配していたが、そのうち、時江はいきなり身体をもじらせて、甲高い狂ったような叫び声をたてた。
「ああ、それじゃ、稚市《ちごいち》の身体を喰べさせようって云うの。まるで、この仔鹿《かよ》の形は、あの子の身体にそっくりじゃないの。ほんとうに、じりじり腐ってゆくよりも、いっそひと思いに、こんなふうに焼かれてしまったほうがましだわ。もう、そうなったら、烏だって喰べやしないでしょうからね。山猫だって屍虫《しでむし》だって、てんで寄りつかないにきまってますわ。大兄さん、いったい肝ぐらい喰べたって何になるのさ」
時江はおりおりこのように、何かの形にあれを連想しては、心の疼《うず》きを口にするのが常であった。がその時はそう云いながらも、何かそれ以外に、一つの憑着《ひょうちゃく》が頭の中にあるとみえて、いくつかの鳥や獣の、名前を口にするごとに、首を振っては、何ものかを模索している様子だった。それに、くらは歯のない口を開いて、時江の亢奮を鎮めようとした。
「そんじゃけど、喰うてみりゃ、また足《た》しにもなるもんじゃ。仔鹿《かよ》の眼もよいと云うぞ。時江、むずかりもいい加減にするもんじゃ。この一家にも、儂《わし》の呼吸《いき》があるうちに、もう一度、必ずええ日が廻《めぐ》り来るでな」
「いいからもう、そんな薄気味悪いものばかり並べないで」と母の言葉に押し冠《かぶ》せて、時江は泣きじゃくるように肩を震わせたが、「でも考えてみると、稚市さえ生まれてくれなかったら、こんなにまでひどい苦しみを、うけずにすんだかもしれないわ。あの病いの始めのうちは、肌の色が寒天のように、それはそれは綺麗に透き通ってくるんですって。それから、痺《しび》れがどこからとなくやってきて、身体中を所嫌わず、這い摺るようになると、今まで見えていた血の管の色が、妙に黝《くろ》ずんできて、やがて痺れも一個所に止まってしまい、そこが白斑《なます》みたいに濁ってくるんですとさ。でも、それと判ってさえいなければ――ひょっとしたら、死に際近くになって出ないとも限らないのだし、まったくこんなふうに、いつ来るか――いつ来るかいっそ来てしまえばとも捨鉢に考えてみたり、また事によったら、一生を終えるまで出ずにはすみはしまいかと――そんな当途《あてど》ない、心安めを云い聴かせてまで生きているのが……。どう大兄さん、貴方ひと思いに死ねて――ええ、死ねやしないでしょうとも、私だって同じことですわ。これがあるばかりに、妙に意地悪い考えばかり泛《うか》んできて、もし死ぬまで出なかったら、死に際にありたけの声を絞って、あの病いを嘲りつけてやろうなどと思ったりして……」
とそれなり、時江の声が、心細い尾を引いて消えてしまったけれども、その彼女の言葉は、いちいち異った意味で、四人の心に響いていた。母のくらは、自分の余命を考えると、真実さほどの衝動でもなかったであろうし、滝人は滝人で、またありたけの口を開いて、眼前の猿芝居――まるで腹の皮が撚《よ》れるほど、滑稽な恐怖を嗤《わら》ってやりたかったに相違ない。ところが、十四郎と喜惣とは、時江の悲嘆には頓着なく、事もあろうに、肉の取り前から争《いさか》いを始めた。それは、泥|塗《まみ》れになった片側を、十四郎が喜惣に当てたことで、喜惣はまたむきになって、無傷のほうを自分のものに主張するのだった。そして、熱してきた仔鹿《かよ》の上へ、二人がさかんに唾を吐き飛ばせていると、母のくらは、またドギマギして、二人の気を外らそうとして、別の話題をもちだした。
「そんな聴き苦しい争いをせずと、やはり仔鹿の生眼がええじゃろう。あるんなら喜惣よ、こけえ早う持ってきたらどうじゃな」
「そんなものは、ありゃせんぞ」と白痴特有の、表情のない顔を向けて、喜惣は、新しく訪れた観念のために、前の争《いさか》いを忘れてしまった。そして、仔鹿《かよ》を結わえた鉄棒を、再び廻しはじめながら、
「最初から、ありゃせん。たぶん烏にでもつつかれたんじゃろう」
「いや熊鷹《くまたか》じゃろう。あれは意地むさいでな。だがなあ喜惣、この片身はどうあっても、お前にはやれんぞ。あれは、第一|儂《わし》の穽《あな》なんじゃ」と食欲以外には、生活の目的とて何もない十四郎が、あくまで白痴の弟を抑えつけようとすると、
「なに、鷹が……」と時江は、それまでにない鋭い声を発した。が、その気勢にも似ず、それからぼんやりと仔鹿《かよ》の頸を瞶《みつ》めはじめた。
「欲しくもないものなら、熊鷹か鷲でもいいだろうが、時江、いったいお前は何を考えとるんだな」とその様子を訝《いぶか》しがって、十四郎が問い返すと、時江は皮肉な笑いを泛《うか》べて云った。
「いいえ、なんでもないことなんですの。ただ大兄さんが、仔鹿の傷のない片身を、とろうとおっしゃるので、それはいくら望んだって、もう出来ないことだと云いたいだけですわ。いいえ、どう思ったって、この谿間《たにあい》に来てしまったからには、取れるもんですか」
それには、刺すような鋭さはあったが、何の意味で、そのように不可解な言葉を吐くのか、まったく煙《けむ》に巻くような不可思議なものがあった。しかし、美しい斑のある片側も、しだいに毛が燃えすれてきて、しばらく経つと、皮の間から熱い肉汁が滴りだし、まったくその裏側と異らないものになってしまった。すると、なお訝《いぶか》しいことには、その後の時江は、別人のように変ってしまって、十四郎がしぶとくその側にのみ、刃を入
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