。そうしますと、その先夫というのが、いったい何者に当るのでございましょうか。だいたい先夫遺伝といえば、前の夫の影響が、後の夫の子に影響するのを云うのですけど、たいていは、皮膚か眼か髪の色か傷痕くらいのところで、私のような場合は、おそらく万《まん》が稀《まれ》――稀中の奇と云っても差支えないだろうと思われますわ。それほどあの瞬間の印象が強烈だったのでございましょう。ようございますか、たとえば、二匹の牛の眼を縛って、互いに相手を覚らせないようにしてから、交尾させたとします。そうしてから、まず牡牛だけを去らせて、その後に牝牛の眼隠しを解きますと、そうしてから生れる犢《こうし》が、その後同居する牡牛の色合に似てしまうのです。それが私の場合では、あの時の鵜飼邦太郎《うがいくにたろう》の四肢《てあし》にあったのですわ。当時私は、妊娠四ヶ月でございました。そして、惨《いじ》らしくも指まで潰《へ》しゃげてしまった、あの四肢《てあし》の姿が、私の心にこうも正確な、まるで焼印のようなものを刻みつけてしまったのです」
 それこそ、滝人一人のみしか知らぬ神秘だったと云えよう。あの――騎西一家を震駭《しんがい》させた悪病の印というのも、判ってみればなんのことはなく、むしろ愛着の刻印に等しかったではないか。しかし、そうしているうちに滝人の顔には、ちょうど子供が玩具を見た時のあれが、だんだんつのってきて、終いには、手足をバラバラに※[#「※」は「てへん+腕のつくり」、118−10]《もぎ》ってやりたくなるような、てっきりそれに似た衝動が強くなっていった。そして、手肢《てあし》をバタバタさせている唖の怪物を、邪慳《じゃけん》にも、かたわらの叢の中に抛《ほう》り出した。
「けれども貴方《あなた》、私には稚市《ちごいち》が、一つの弄び物《ジュージュー》[#ルビは「弄び物」に付く]としか見えないのでございます。ああ、弄び物《ジュージュー》[#ルビは「弄び物」に付く]――聴くところによりますと、奇書『腑分指示書《デモンストリス・エピストーラ》』を著したカッツェンブルガーは(以下五〇六字削除)。そうなって稚市という存在が、むしろ運命というよりかも、私という孤独の精神力から発した、一つの力強い現われだとすると、かえって、それを弄《もてあ》んでやりたい衝動に駆られてゆきました。そこであの低能きわまる物質に、私はいろいろな訓練を施していったのです。けれども、最初は低能児の試練《テスト》から発したものが、驚いたことには、しだいに度を低めてゆくのです。そして、ついに成功した実験といえば、なさけないことに、たったこの二つだけの動物意識で――つまり多T《ティ・メニー》とか長短《ロング・コンド・ショット》とかいうような種々《いろいろ》な迷路を作って、高麗《こま》鼠にその中を通過させる――ものと、もう一つは蛞蝓《なめくじ》以外にはない背光性――。いまも御覧のとおり、陽差しが背後に落ちますと、この子は、まるで狂気のようになってグングン暗い下生えの蔭に、這い込んでゆこうとしていたではございませんか。わずかその二つだけが、この子の中で働いている神経なのでございます。どうか、残忍な母だと云って、お叱りにはならないで。第一貴方がご自分から踏み外したために、こうした不幸な芽が植えつけられてしまったのですから。そうなったら、どんなに黒い不吉な花でも、そこから、咲きたいだけ咲けばよいのですわ。私はただ、幻覚的な考えを――誰にでも淋しがりやにはきっとある、それをしているにすぎないのです。大人にだって子供にだって、誰にだっても、わけてもこの谿間《たにあい》では、一刻も玩具《おもちゃ》なしには生きて行かれませんわ」
 そう云って滝人は、暗い樹蔭に這いずって行く稚市《ちごいち》の姿を、じっと見守っていた。玩具――愛玩動物。いまではからくも稚市に、蛞蝓《なめくじ》のように光に背を向けて這い、迷路を通過して行く――意識だけが作られたにすぎないのである。しかし、そこに脈打っている滝人の苦悩も、とうてい聴き逃すことは出来ないであろう。彼女は、生きて行くに必要な条件だけは、たとえどうあっても、どのように、陰鬱な厳しさをあえてしてまで、整えねばならなかったのである。しかし、稚市の姿が、視野から外れてしまうと、滝人はかたわらの、大きな茸《きのこ》に視線をとめ、それから、家族の一人一人についての事が、数珠《じゅず》繰りに繰り出されていった。
「それから貴方に、お祖母《ばあ》さまの事を申し上げましょう。あの方には、まだ昔の夢が失われてはおりません。いつかまた、馬霊教が世に出ると――確《かた》く信じていて、あの奇異《ふしぎ》な力が日に増し加わってゆくのでございますわ。ですけど、その一方には、肉体の衰えをだけは、もうどうすることも出来なくなっております。ちょうどこの白い触肢のある茸《きのこ》みたいに、ばらっと短い後毛《おくれげ》が下ってさえ、もう顔の半分も見えなくなってしまうのですから。ところが、あのお齢《とし》になってさえも、相変らず白髪染めだけは止めようとはなさいません。そして、私がこの樹立の中にまいりますのを、大変お嫌いになりまして、毎朝|行《ぎょう》をなさる御霊《みたま》所の中にも、私だけは穢《けが》れたものとして入れようとはなさいません。けれども、かえって私には、それが気楽でございまして、という理屈も、この瘤《こぶ》の模様が、眼も口も溶け去った、癩の末期のように見えるからなのだそうでございます。けれども、私にとって、何より怖ろしい事は、先日|秘《こ》っそりとお呼びになって、とうとう私の運命を、終りまでもお決めになってしまった事です。いまの十四郎が、もしかして死んだ場合にも、私だけはこの家を離れず、弟の喜惣《きそう》に連れ添え――って。ですもの、私に絶えずつき纏《まと》っているのが、そのしぶとい影だとしたら、たとえば悪魔に渡されようたって……。ええまったく、情も悔恨《くい》もないあの針を、それから私が、胸にしっかりと、抱くようになったのも、道理ではございませんか」
 滝人は暗い眉をしながらも、そう云いながら、瘤の模様を眺めていると、十四郎のあの頃が、呼吸《いき》真近に感じられてきて、あああの恰好、これ――と、眼の前にありあり泛《うか》んでくるような心持がするのだった。しかし、すぐに滝人は次の言葉をついで、小法師岳の突兀《とつこつ》とした岩容を振り仰いだ。
「それから、次の花婿に定《き》められている喜惣は、あの山のように少しも動きませんわ。ここへ来てからというもの、体身《からだ》中が荒彫りのような、粗豪な塊《マス》で埋《うず》められてしまい、いつも変らず少し愚鈍ではございますけど、そのかわり兄と一緒に、日々野山を駆け廻っておりますの。それが、私の心を、隅々までも見透かしていて、私をいつか花嫁とするためには、いっそう健康に注意をし、何より、兄よか長生きをしよう――そう考えて、日夜体操を励んでいるとしか思われないのです。白痴の花嫁――そのいつか来るかもしれない、明日の夢のようなものが、私の心の中で、絶えず仄暗《ほのぐら》く燻《くすぶ》っているのです。いっそ焔となって燃え上がってしまえば、そのほうが、ほんとうにどんなにか……」
 と或る場合に対する異常な決意を仄《ほのめ》かせて、滝人はきっと唇を噛んだ。しかし、その硬さが急に解《ほぐ》れていって、彼女の眼にキラリと紅《あか》い光が瞬《またた》いた。すると、鼻翼《こばな》が卑しそうに蠢《うごめ》いて、その欲情めいた衝動が、渦のような波動を巻いて、全身に拡がっていった。
「そして貴方、時江だけが、家族の中でただ一人、微妙な痛々しい存在になっているのです。もうあの人には、本体がなくなっていて、ただ影を落した、泉の中の姿だけが生きているようなのです。その娘は、冷たい清らかな熱のない顔付きをしていて、少しでも水の面を動かそうものなら、たちまちどこかへ消えてでもしまいそうな、弱々しさがございます。それですから、お母さまにはいつものように邪慳《じゃけん》で、我儘《わがまま》のきりをいたしますけれども、自分が受けようとする感動には、きまって億劫《おっくう》そうに、自分から目を瞑《つむ》っては避けてしまうのです。ええようく、私にはそれが判っておりますの。あの人は、兄の十四郎の荒々しさを怖れると同じように、やはり私の眼も――。いいえ私だって、あの人の側では荒い息遣いをしてもいかず、自分の動悸《どうき》でさえ、水面が乱れてしまうことぐらいは承知しているのですけれど、あの熱情を、貴方に代えて向ける人と云えば、時江さん以外に誰がありましょうか。まったくあの顔は、貴方生き写しなのですから。でも少し憔悴《やつ》れていて、顔に陰影のあり過ぎることと、貴方にあった――抱き潰すような力強さには欠けております。しかし、私の執念《しぶとさ》は、その詮《せん》ないことすらも、なんとかして、出来ることなら、より以上の近似に移そうといきみだしましたの。それで思いついたのを、なんとお考えになります? それが、実は、鉄漿《はぐろ》なのでございます。ああ、いまどき鉄漿をつけるなどとは――てっきり狂人《きちがい》か、不気味な変態者としかお考えになりますまいが、事実それは、どうしてもそうさせずにはいられない、私の心の地獄味なのでございますよ。で、なぜそうしなくてはならぬかと申せば、大谷勇吉の『顔粧《かおつくり》百伝』や三世|豊国《とよくに》の『似顔絵相伝』などにも挙《あ》げられておりますとおりで、鉄漿を含みますと、日頃含み綿をする女形《おやま》にもその必要がなく、申せば、顔の影と明るみから、対照の差を奪ってしまうからなのでございましょう。ですから、いわゆる豊頬《ふくらじし》という顔相は、皮膚の陰影が、よりも濃い、鉄漿に吸収されて生れてくるのです。しかし、私が思いきって、それを時江さんに要求いたしますと、あの方は、手渡しされた早鉄漿《はやがね》(鉄漿を松脂に溶いた舞台専用のもの、したがって拭えばすぐに落ちるのである。)の壺を、その黷ナ取り落してしまい、激しく肩を揺すって、さめざめと泣き入るのでございます。またそうなると、私の激情はなお増しつのっていって、いきなりその肩を抱きしめて、揉《も》み砕いてしまいたくなるような、まったく浅間《あさま》しい限りの、欲念一途のものと化してしまうのでした。で、それからというものは、私自身でさえ、身内に生えはじめてきた肉情の芽が、はっきりと感じられてきて、いつかの貴方と同様に、時江さんの身体まで、独り占めにしたい欲望が擡《もた》がってまいりました。あの雪毛のような白い肉体が、腐敗の酵母となって、私の心をぐんぐん腐らせていったのです。そのためですかしら、私の身体の廻《ぐる》りには、それから蠅や虻《あぶ》などが、ブンブン唸ったり、踊ったりするようになったのですけれど、しかし貴方の幻を、その上に移したとすれば、当然その肉体までも、占めようとしたって、あながち不自然な道程《みちすじ》ではないだろうと思われますわ」
 そこで急に言葉を截《た》ち切って、滝人は悲しみに溢れたような表情をした。けれども、その悲しみのかたわらに、何か一つ魔法のような圏があるとみえて、その空虚を、みるみる間に充してゆくような、凄まじい響が高まってきた。
「ですから、時江さんが避ければ避けるほど、貴方の幻をしっくりと嵌《は》め込むのに、焦《じ》れだしてきたのですが、折よくこの樹立の中で、私は人瘤《ひとこぶ》を探し当てました。それが私をまったく平静にして、あの烈しい相剋が絶えずひしめき合っていてさえも、いっこう爆発を惹《ひ》き起すまでには至らないのです。つまり、私の心を、膜一重でからくも繋ぎ止めているあの三重の心理――現在の十四郎を鵜飼としてそうしての春婦のような私と、時江さんに貴方を求めても、いつ追いつけるか判らない私。それから、その空虚を充そうとして、人瘤を探しだした私――と、この三つの人格が、今にも綻《ほころ》びるかと思わ
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