たからこそ、明け暮れ同じ顔を突き合わせているだけでも――、終いにはその顔の細かい特徴までも読み尽してしまって、その上話すにも話しよう種がないといった――それがまさしく騎西家の現状なのでございますが、そのような寂寥のどん底の中でも、私だけはこんなにも力強く、一つの曙光《しょっこう》を待ち焦がれて生きてゆけるのですから。でも、その曙光というのが、もしかして訪れてきた時には、私はいったいどうしたらいいのでしょうか。つまり、それまでは眼も開けられなかった――あの霧が、晴れたときのことですわ……」
 滝人の眼の中では、血管がみるみるまに膨れていって、それまで覆うていた、もの淋しげな懐疑的なものが消えた。そして、全身が不思議なことに、まったく見違えてしまったほどに豊かな、いかにも生理的にも充実しているかのような、烈しい意欲の焔《ほのお》に包まれてしまったのである。しかし、そのとき何と思ったか、滝人はサッと嫌悪の色を泛《うか》べて、樹の肌から飛び退いた。
「ねえ、貴方はいまの厭《いと》わしい臭いはご存知ないでしょう。けっして、あの頃の貴方には、いまみたいな蒸《む》れきった樹皮の匂いはいたしませんでした。ですから、あの男がもし、真実貴方の空骸《なきがら》に決まってしまうのでしたら、それこそ、私の採る道はたった一つしかないわけでございましょう。ええ、あの男が鵜飼であってくれるほうが、それはまだしもの事なのです。ですけど、そうなるとまた、一刻も貴方なしでは生きてゆけない私にとると、この世界がまるで悪疫後の荒野といったようなものに化してしまうでしょう。まったく、貴方であってもならず、なくてもいかず、そのどっちになっても、私の絶望には変りがないのです。当然貴方の幻は、その場限りで去ってしまうのですから、かえっていまのように、執念《しぶと》い好奇心だけに倚《よ》り縋《すが》っていて、朦朧《もうろう》とした夢の中で楽しんでいる――ともかく、そのほうが幸福なのかも判りませんわ。けれども、そうして日夜あの疑惑の事ばかりを考え詰め、その解答が生れる日の怖ろしさをまた思うと、はては頭の中で進行している、言葉の行間がバラバラになってしまって、自分もともども、その中の名詞や動詞などを一緒に、どこかへ飛び去ってしまうのではないかと思われてきました。事実、私という存在が、脳髄そのものだけのような気がして、あるいはこのまま狂人の世界に惹き入れられてゆくのではないかと思われて、不安はいっそう募ってくるばかりでした。ところが、その瀬戸際で危うく引き止めてくれたのは、ある一つの観念が、ふと私の頭の中で閃《ひらめ》いたからです。つまり、それをさせぬためには、まずどっちにでも、均衡《つりあ》うだけの重錘《おもし》を置くことだ。その茫漠とした靄《もや》のような物質を、単なる曖昧だけのものとはせず、進んで具象化して、一つの機構に組上げなければならぬ――と教えてくれました」
 それはさながら、魂と身体とに、不思議な繋《つな》がりがあるのではないかと思われたほど――言葉がそこまでくると、滝人の全身に、異様な感情の表出が現われた。そして、虻《あぶ》や黄金虫や――それまで彼女にたかっていた種々《いろいろ》な虫どもが、いきなり顫《おのの》いたようないっせいに、羽音を立てて、飛び去ってしまった。
「ところで、まず先立ってお話ししなければならないのは……、そうして現在の十四郎と、あの時の鵜飼の顔をかわるがわる思い泛《うか》べていると、いつかその二つが、重なり合ってしまうような、心理作用が私に現われたことです。それを、二重鏡玉像《マルティブル・レンズ・イメージ》とかいうようで、よく折に触れて経験することですが、眼に涙が一杯に溜ると、そのために、美しいものでも歪んで見え、またこよなく醜いものが、端正な線や塊に化してしまうことがあるのです。現に、伊太利《イタリー》の十八世紀小説の中にですが、凸凹《でこぼこ》の鏡玉《レンズ》を透して癩患者を眺めたとき、それが窈窕《ようちょう》たる美人に化したという話もあるとおりで……。また、忌隈《いみぐま》という芝居の古譚などもございまして、一つの面明《つらあか》りで、ちがった隈取《くまどり》をした二つの顔を照らす場合には、よほど隈の形や、色を吟味しておかないと、えてして複視を起しやすい遠目の観客には、それが重なりあったとき、悪くすると、声でも立てられるような、不気味なものに見えるそうなのです。事実私には、その現象が心理的に現われてきて、あの二つの顔を思い泛べていると、いつのまにか、その二つが重なり合ってしまうのです。そうすると、おそらく偶然に、その陰陽が符合しているせいでしょうか、それがのっぺら[#「のっぺら」に傍点]とした、まるで中古の女形《おやま》のような、優顔《やさがお》になってしまうのですよ。ああ、それで、やっと私は救われました。実際は見もしなかった。変貌以前の鵜飼の顔を、それと定めることが出来たからです。そこで、私の心の中には、あのてんであり得ようとは思われない、不思議な三重の心理が築かれてゆきました。そして、そのためには、たとえどのように、力強い反証が挙がろうとも、現在の十四郎は絶対に鵜飼邦太郎その人であり、さらに、そうなるとまた、貴方に対する愛着が、当然的を失ってしまったようでございますが、それを私は、どんなに酷《むご》い迫り方をしようとも、妹の時江さんから求めねばならなくなりました。この不可解しごくな転換は、まったく考えても、考えきれぬほど異様な撞着《どうちゃく》でございましょう。現実私でさえも、その二つとも、自然の本性に反した不倫な欲求であることは、ようく存じております。ええそうですとも、私という一つの人格が、見事二つに裂け分れたのですわ。それも、まったくヒド奄ンたいに、たとえ幾つに分れようとも、離れるとすぐその二つのものは、異った個体になってしまうのでございます。私が十四郎に対するときには、あの不思議な心理の中でしか知らない鵜飼邦太郎を、じっと瞼《まぶた》の中に泛《うか》べて、それはまるで、春婦のような気持になってしまうのです。そして、貴方からいつまでも離れまいとする心は、いつでも時江さんに飛びついていて、貴方そっくりのあの顔に、しっくりと絡みついて離れないのです。ああお憤《いか》りになってはいけませんわ。現在の十四郎との肉欲世界も、時江さんのような骨肉に対する愛着も、みんな貴方が、私からお離れになったからいけないのですわ。でも、そうして貴方というものを、新たに求めて、その二つを対立させなかった日には、どうして、心の均衡が保ってゆけるでしょうか。また、その対立が破壊されたとしたら、いまの私では、おそらく狂人《きちがい》になるか、それとも、破れたほうの一人を殺しかねないものでもありません。どうか貴方、それを悲しくおとりにはならないで――。私は自分の状態に対して、本能的に、一つの正しい手段を選んだにすぎないのでございますから。ですけど、また考えようによっては、それが当然の経路なのです。最初救護所で、鵜飼邦太郎の顔を一目《ひとめ》見た――その時から、貴方はその中へ溶け込んでおしまいになったのですからね。ああ、そうそう、きっと貴方は、稚市《ちごいち》を見れば、お駭《おどろ》きになるに違いありませんわ。あの子は、貴方が最初の人生をお終えになった、その後に生れたのですが、やはりあの子にも、貴方と同じ白蟻の噛み痕《あと》があるのです」
 その頃は、雷雲が幾分遠ざかったので、空気中の蒸気がしだいに薄らぎはじめた。そして、その中へ一面に滲《にじ》み出したのは、今にも顔を出しそうな陽の影だった。すると、沼の水面で大きな魚が跳ねたとみえ、ポチャリと音がすると、そのとき池畔の叢《くさむら》の中から、それは異様なものが現われて出て来た。そこは、鋸《のこぎり》の葉のような、鋭い青葉で覆われていたが、いきなりそこ一帯が、ざわざわ波立ってきたかと思うと、それまで白い蘚苔《こけ》の花か、鹿の斑点のように見えていたものが、すうっと動き出した。そして、その間から、人間とも動物ともつかぬ、まったく不思議な形をしたものが、声も立てず、ぬうっと首を突き出した。

 二、鉄漿《はぐろ》ぐるい

 それが、騎西《きさい》一家に凍らんばかりの恐怖を与え、絶望の底に引き入れた、稚市《ちごいち》だった。その時、もし全身を現わしたなら、それは悪虫さながらの姿だったであろう。不吉な蒸気の輪が、不具の身体と一緒に動いていって、その手《て》が触れるところは、すぐその場で、毒のある何物かに変ってしまうだろうと思われた。しかし、あの醜い手足も青葉の蔭に隠れ、不気味な妖怪めいた頭蓋の模様も、その下映《したばえ》に彩《いろど》られていて、変形の要所《かなめ》は、それと見定めることは出来なかった。そして、腹に巻いてある金太郎のような、腹掛の黒さだけがちらついて、妙にその場の雰囲気を童話のようなものにしていた。けれども、稚市自身はどうしたことか、両腕をグングン舵機のように廻しながら、おりおり滝人のほうを眺め、ほとんど無我夢中に、前方の樹下闇《このしたやみ》の中に這い込もうとしている。だが、彼を追うているのは、ただ一条の陽の光りだけで、それが槲《かしわ》の隙葉から洩れているにすぎない。それを滝人は瞬《またた》きもせずに瞶《みつ》めていた。その眼は強く広く※[#「※」は「目+爭」、116−8]《ひら》かれていたが、眼前にかくも怖ろしいものがあるにもかかわらず、いつものように病的な、膜までかかったような暗さは見られなかった。それが、この物語の中で、最も驚くべき奇異な点だったのである。
 実際、その観念は恐ろしいものだった。悪病の瘢痕《はんこん》をとどめた奇形児を生む――およそ地上に、かくも苦しいものが、またとあるであろうか。けれども滝人は、そのために、まったく無自覚になっているのではなかった。どんなに、威厳のある、大胆な考えでさえも、とうてい及ばないほど、彼女の実際の知識が、この変形児を、まったく異ったものに眺めていた。こうして見ていても、彼女の胸は少しも轟《とどろ》いてはいず、眼前にある自分の分身でさえも、まるで害のない家畜のように、自分にはその影響を少しもうけつけないといった――真実冷酷と云えるほどの、厳《おごそ》かさがあった。やがて、彼女は瘤《こぶ》に向って、肩を張り、勝ち誇ったような微笑《ほほえみ》を投げて云った。
「あれが癩ですって、莫迦《ばか》らしい。あの人達は、途方もない馬鹿な考えからして、一生涯の溜息《ためいき》を吐き尽してしまいました。まったくなんの造作もなしに、自分のものを何もかも捨ててしまったのです。けれども、それも稚市《ちごいち》が、迷わしたというのでもないのです。ただ知らない――それだけの事ですわ。でも、今になって、私が糞真面目な顔で、その真相をこれこれと告げる気にもなれません。あれが、癩ですって、いいえ、あの、眼を覆いたくなるような形は、実は私が作ったのです。[#「あの、眼を覆いたくなるような形は、実は私が作ったのです。」に傍点]あの時は、稚市どころか、どんな驚くようなものでも――私には、創り上げるだけの精神力が具わっておりました。断じて、癩ではございませんわ。その証拠には、これを御覧あそばしたら……」
 そう云って滝人は、稚市を抱き上げてきて、膝の上で逆さに吊し上げ、その足首に唇を当てがって、さも愛撫するように舐《な》めはじめた。唾液がぬるぬると足首から滴り下《お》ち、それが、ふっ切れた膿《うみ》のように思えた。が、滝人には、そうしている動作にも、異様な冷たさや落ち着きがあって、やがて舐め飽《あ》きると、今度は試験管でも透かし見るように、稚市の身体を、これよとばかりに高く吊し上げた。
「このとおりでございますもの。稚市《ちごいち》のこれが、先夫遺伝《テレゴニー》でさえなければ……。まさに先夫遺伝《テレゴニー》なのでございますの。でも、私には貴方以外に、恋人もなければ、夫もないはずです
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