と》まりのつかない、空想的な形に見えだしてきたが、そのうち、突然に彼女は、がんと頭を撲《う》たれたような気がした。そして、思わず眼が昏《くら》むのを覚えた。
 今まであの隧道《とんねる》の惨事以来、彼女に絶えず囁《ささや》きつづけていた、高代《たかよ》という一事が、今度も滝人の前に二つ幻像となって現われた。それは、最初鵜飼の腸綿《ひゃくひろ》の中に現われて以来、あるいはくらの瞳の中に映ったり、また数形式《ナンバー・フォームス》の幻ともなって、時江を脅《おびや》かした事もあった。けれども、いよいよ最後には二つの形をとり、滝人の企てを凱歌《がいか》に導こうとしたのである。漠として形のない、心の像のみで相手を斃《たお》す――それは、誰しも望むべくして得られない、殺人の形式として、おそらく最高のものではないか。
 午後の雷雨のために、湿気が吹き払われたせいか、山峡の宵深くは、真夏とも思われぬ冷気に凍えるのを感じた。頭上に骨っぽい峰が月光を浴びて、それが白衣を着た巨人のように見え、そのはるか下に、真黒な梢を浮き上がらせている樅《もみ》の大樹は、その巨人が引っさげている、鋭い穂槍のように思えた。それは、頭の病的なときに見る夢のようであって、ともすると、現実に引き入れたくなるような奇怪な場面であった。しかし、それから母屋のなかに入り、その光景を桟《さん》窓越しに眺めている滝人には、いささかもそうした物凄い遊戯が感じられず、まったくその数瞬間は、緊張とも亢奮とも、なんともつかぬ不安の極点にあった。ところで、滝人が最初|目《もく》した、十四郎の居間付近について、やや図解的な記述が必要であると思う。その寝間というのは、蚕室の土間の階段を上った右側にあって、前の廊下には、雨戸の上が横に開閉する、桟窓があった。そして、廊下から以前の階段を下った所は、大部分を枯草小屋が占めているので、自然土間が鍵形になり、一方は扉口に、もう一つのやや広い方は、階段と向き合った蚕室に続いていて、そこにも幅広い、手縁《てべり》[#底本では、さらに送りがなに「り」がある]をつけた階段があり、その上方が蚕室になっていた。しかし、その二つの階段は、向き合っているとはいえ、蚕室の方は、両側に手縁があるだけ……壁に寄った方の手縁の端から直線を引いてみると、それが向う側では、階《きざはし》の中央辺に当るのだった。しかし、そのような事物の位置一つに、十四郎の死地が口を開いていたのである。
 それから滝人は永いこと、蚕室の階段に突っ立っていた。そしてじっと神経を磨ぎ澄まし、何か一つの物音を聴き取ろうとするもののようであった。そこは、空気の湿りを乾草が吸い取ってしまうためか、闇が粘《ね》とついたようにじめじめしていて、時おり風に鳴ると、枯草が鈴のような音を立てる。しかし、滝人の足元には、もう一つ物音があって、彼女は絶えずそれに眼を配り、少しでも遠ざかると紐を手繰《たぐ》っては、何か人馴れた生物のようなものを、扱っていた。それが、唖《おし》の変形児|稚市《ちごいち》だったのである。が、それを見ると、滝人は吾が児《こ》までも使い、夫の死に何かの役目を勤めさせようとするのであろう。しかし、その間滝人は、いつものような内語を囁きつづけていた。
「貴方《あなた》、私はあの醜い生物《いきもの》を、これから絞首台に上《のぼ》させようとするのです。もし人格と記憶が生存の全部だといたしますなら、死後の清浄という意味からでも、私をお咎《とが》めにはなりますまいね。いいえ、これで貴方は、まったく清らかになれるのですわ。稚市に芽ばえたものを、やはり終いにも、この子が刈り取ってくれるのですから、もうすぐと、あの生物の眼には、高代という魔法の字が映るに相違ないのです。どこにでしょうか。しかもそれは、二度現われるはずなのです。ときに、『反転的遠景錯覚《イリュージョン・オブ・リヴァシブル・パースペクチヴ》』という、心理学上の術語をご存知でいらっしゃいまして。では、試しに名刺を二つに折って、その内側になったほうを、かしげながら片目で眺めて御覧あそばせな。きっとそれが、折った外側のように見えるはずなのですから。つまり、内角が外角に変ってしまうのですが、いまあの生物は引ん曲った溝を月の山のようにくねらせて、それは長閑《のどか》な、憎たらしい高鼾《たかいびき》をかいておりますの。でも、すぐ眼が覚めて、それからこちらへ、引き摺られるようにやって来るに相違ありませんわ。なぜかって、よくこんなそらぞらしい気持で、私が云えるかって。だって、そうでございましょう。稚市とあの男と、いったいどこが違っておりますの。ただ片方は光に背を向け、あの男の方はそれを慕って、何かの植物のような向光性《トロピズム》があるだけなんですものね。いえ、もうすぐにお判りになりますわ。あの男は、いま紙帳《しちょう》の中で眠っておりますの――下が高簀子《たかすのこ》なものですから、普通の蚊帳《かや》よりもよほど涼しいとか申しまして。そしてその紙帳というのは、祝詞《のりと》文の反古《ほご》を綴《つな》いだものに渋を塗ったのですが、偶然にも高代という二字が、頭と足先に当る両方の上隅に、同じよう跨っているのです。そこで、私が、なぜ前もって桟窓を閉じ、時計の振子を停めたか、その理由を申しましょう。現在あの男は、紙帳の中に眠っているのですが、眼を覚ますと、そこが、紙帳の外であるような感覚が起ってしまうのです。[#「紙帳の中に眠っているのですが、眼を覚ますと、そこが、紙帳の外であるような感覚が起ってしまうのです。」に傍点]いいえ、奇態でも何でもありませんわ。ちょうど具合よく、あの男は仔鹿《かよ》の脂《あぶら》をうけて、右眼が利かないフですし、桟《さん》の間から洩れる月の光が、紙帳の隅の、その所だけを刷いているのですから。当然下は闇ですし、頭を擡《もた》げると、頭上にある高代《たかよ》の二字が、外側へ折れているように見えて、自分が蚊帳の外にいるのではないか――と錯覚を起してしまうのです。ですから、外に出たと思って中に入ろうとし、紙帳の垂れをまくって一足|膝行《いざ》ると、今度は反対に外へ出てしまうのですが、その眼の前に、一つの穽《あな》が設《しつら》えてあるのです。以前東京の本殿にございました、大きな時計を御記憶でいらっしゃいましょう。あの下にさがっている短冊形の振子を、先刻《さっき》十一時十分の所で停めておいたのです。そして、紙帳にある高代の二字がそれに小さく映るとしましたら、なんとなく、御霊所の母の眼に似つかわしいではございませんかしら」
 滝人はそうしているうちにも、絶えず眼を、十四郎の寝間の方角に配っていて、廊下の仄《ほの》かな闇を潜っている物音なら、どんな些細なものでも、聴き洩らすまいとしていた。しかし、そこには依然として、この地峡さながらのごとく音がなかった。彼女はもう、渾身《こんしん》の注意に疲れきってしまい、その微かな音のない声にも、妙に涸《か》れたような、しわがれが加わってきた。
「ですから、催眠心理の理論だけから云っても、その場去らず、母の眼を見ると同じ昏迷に、あの男は陥ってしまうのです。さあ、どのくらい長い間、その場にじっとしていることでしょうね。いいえ、そうしているうちに、あの男はだんだんと動くようになってくるのです。なぜなら、月が動くにつれて、左側の方からその高代という像が、しだいに薄れていくのですから、当然身体が、右の方に廻転していく道理でございませんか。そして、まったく消え去る頃には、あの男は廊下の中に出てしまうのですが、そうすると、またそこには別の高《たか》の字が待ち設けていて、あの男をぐんぐん前方に引き摺っていくのです。それが、この稚市《ちごいち》なんでございますわ。私は、時江さんが仔鹿《かよ》の胴体に描いたものに暗示されて、一つの奇怪きわまる写像に思い当ったのでした。と申しますのは、この置燈籠のような身体に、一つは背の中央、一つは両|股《また》の間に光りを落しますと、それが高《たか》と同じ形になるのではございませんか。そして、この子の身体は闇の中に浮き上がりますし、それに、両股の間からくる光りに怯《おび》えて、階段を這い上がるに相違ないのですから、それに惹《ひ》かれて、あの男が歩んでまいりますうちに、いつか廊下が尽き、それなり下に墜落してしまうのです。ところが、その場所には、横に緩く張った一本の綱がございます。そればかりか、それにはなお、狭い間隔を置いて縦に張った二本が加わっておりますので、あの男の頸がその中央《まんなか》辺に落ちれば、否応《いなおう》なくちょうど絞索《こうさく》のような形が、そこに出来上がってしまうでしょう。貴方の空骸《なきがら》は、そうしてグルグル廻転しながら、息が絶えてしまうのです。でも、どうしたということでしょう。いつもなら今時分には一度、きまって眼を覚ますのですが……」
 滝人の頭は、しだいに焦躁《いらだ》たしさで、こんがらがってきた。もしこの機会を逃したなら、あるいは明日にも、十四郎は片眼の繃帯を除《と》らぬとも限らないのである。そうしたら、完全に犯罪を遂行する――あの嫌らしい呼吸や、血に触れることなくなし了せる機会は、永遠に去ってしまうに相違ない。そう思うと、滝人の前には、陰鬱な壁が立ちはだかってきて、たまらなく稚市の、獣のような身体が憎くなってきた。が、その時、カサリという音が、十四郎の寝間の方角でしたかと思うと、滝人の心臓の中で、ドキリと疼《うず》き上げたような脈が一つ打った。すると、熱い血が顳※[#「※」は「需+頁」、148−11]《こめかみ》に吹き上げてきて、低く息の詰まったような呻きが口から洩れたが、その息を吸いこんだ胸は、膨らんだまま凍りついてしまい、そのまま筋一つ、滝人の身体の中で動かなくなってしまったのである。それから、二度ばかり、あるいは枯草のざわめきかと思われるような音がした。けれども、滝人の神経は、その微細な相違も聴き分けられるほど鋭くなっていて、それを聴くと、むしろ本能的に、眼が廊下の桟窓に向けられた。もうそこには、大半月の光が薄れ消えていて、わずかに階段よりの一部分だけ、細い縞のように光っている。時やよし――その瞬間滝人は、自分の息に血腥《ちなまぐさ》い臭気を感じた。すると、その衝動が大きな活力であったかのごとく、手足が馴れきった仕事のように動きはじめた。まず、稚市《ちごいち》を階段の中途に裾えて足で圧《おさ》え、隠し持った二本の筒龕燈《つつがんどう》を、いつなんどきでも点火できるよう、両手に握り占めた。そして、試みにその光りを、稚市《ちごいち》の上に落してみると、怯えて※[#「※」は「足+腕のつくり」、149−2]《もが》きだした変形児の上に、はっきりとあの魔の衣裳――高の字が描き出されるのではないか。しかし、そのまま灯を消して、次の本当の機会を、滝人は待つ必要がなかった。ふと廊下を見ると、その時そこの闇が、すうっと揺らいだような気がした。と、鈍い膜のかかったような影法師が現われて、廊下の長板が、ギイと泣くような軋みを立てた。
 いまや真夜中である。しかも、古びた家の寂《ひ》っそりとした中で、そのような物音を聴いたとすれば、誰しも堪えがたい恐怖の念に駆られるのが当然であろう。かえって滝人には、それが残虐な快感をもたらした。彼女は圧えていた足を離して、稚市を自由にすると、この不思議な変形児は、両股の間に落された灯に怯え、両手で手縁《てべり》の端を掴《つか》んで、しだいと上方に這い上がっていく。その時、滝人の胸の中で、凱歌に似た音高い反響が鳴り渡った、と云うのは、稚市の遠ざかるにつれて、廊下がミシミシと軋みはじめたからだった。そして、輪廓のさだかではない真黒な塊に、徐々と拡がりが加わってくるのだったが、しかし、子が父を乗せた刑車を引いて絞首台に赴くこの光景は、もしこのとき滝人に憐情の残滓《かす》が少しでもあれば、父と子が声なく呼び合わしている、痛ましい狂喚を聴いたに相違ない。
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