……」と時江の声が、耳に入ったのか入らぬのか、滝人の眼に、突然狂ったような光が瞬《またた》いた。すると、(以下七四字削除)本能的にすり抜けたが、(以下六〇一字削除)異様な熱ばみの去らない頭の中で、絶えず皮質をガンガン鳴り響かせているものがあった。滝人は、いつのまにここへ来てしまったのか、自分でも判らないのであるが、そうして、永いこと御霊所の前で髪を乱し瞼を腫れぼったくして、居睡っているように突っ立っていた。

 三、弾左谿《だんざだに》炎上

 ついにあの男が、鵜飼十四郎に決定されたばかりでなく、**********************、滝人はまるで夢みるような心持で、自分の願望のすべてが充されつくしたのを知った。そして、しばらく月光を浴びて、御霊所の扉に凭《もた》れ掛かっているうちに、しだいとあの異様な熱ばみが去り、ようやく彼女の心に、仄《ほの》白い曙《あけぼの》の光が訪れてきた。それはちょうど、あの獣的な亢奮のために、狂い出したように動き続けていた針が、だんだんに振幅を狭めてきて、最後にぴたりとまっすぐに停まってしまったようなものだった。すると、その茫漠とした意識の中から、なんとなく氷でも踏んでいるかのような、鬱然とした危懼《きぐ》が現われてきた。と云うのは、最初に高代という言葉を聴いたのは、まだ十四郎が意識のはっきりせぬ頃の事であり、その後に時江が耳にしたのも、御霊所の中であって、やはり十四郎は、同じ迷濛状態にあったのではないか。それは、たしかに一脈の驚駭だった。そうして、滝人の手は、怯《おび》やかされるまま、御霊所の扉に引き摺られていったのである。
 扉を開くと滝人の鼻には、妙にひしむような、闇の香りに混じって、黴《かび》臭い、紙の匂いが触れてきた。彼女は入口にしばらく佇《たたず》んでいたが、気づいて、頭上の桟窓をずらせた。すると、乳色をした清々《すがすが》しい光線が差し込んでき、その反映で、闇の中から、梁《はり》も壁も、妙に白ちゃけた色で現われてきて、その横側がまた、艶々《つやつや》と黝《くろ》ずんで光っているのだった。眼の前には、二本の柱で区画された一段高い内陣があって、見ていると、その闇が、しだいにせり上がって行くかと思われるほど、框《かまち》は一面に、真白な月光を浴びていた。またその奥には、さまざまな形をした神鏡が、幾つとなく、気味悪い眼球のように閃《きらめ》いているが、背後の鴨居には、祝詞《のりと》を書きつらねた覚え紙が、隙間なく貼り付けられていて、なかには莫大な、信徒の寄進高を記したものなどもあった。滝人は、そこに手燭を発見したので、ようやく仄《ほの》暗い、黄ばんだ光が室内に漂いはじめた。しかし、滝人には、一つの懸念があって、明るくなるとすぐに、内陣の神鏡を一つ持ってきた。そして、机を二つばかり重ねて、その上に神鏡を据え、しきりと何かの高さを、計測しているようであったが、やがて不安げに頷《うなず》くと、背後の祝詞文に明かりを向けた。そして、自分は神鏡の中を覗き込んだのだが、その瞬間、彼女の膝がガクリと落ちて、全身がワナワナ戦《おのの》きだした。
 その神鏡の位置というのは、常に行《ぎょう》を行う際に、くらが占めている座席であり、かつまたその高さが彼女の眼の位置だとすれば、当然それと対座している十四郎との関係に、なにか滝人を、使嗾《しそう》するものがあったに相違ない。事実、滝人はそれによって、今度こそは全然|償《つぐの》う余地のない、絶望のまっただ中に叩き込まれてしまった。それが、滝人の疑惑に対して、じつに、最終の解答を応えたのである。それから滝人は、刻々血が失われていくような、真蒼な顔をしながら、その結論を、心の中の十四郎に云い聴かせはじめた。
「私は、自分の浅墓《あさはか》な悦《よろこ》びを考えると、じつに無限と云っていいくらい、胸の中が憐憫《あわれみ》で一杯になってしまうのです。お怨みしますわ――この酷《ひど》い誓言を私に要求したのが、ほかならぬ貴方《あなた》なのですから。あの獣臭い骸《むくろ》だけを私に残しておいて、いずこかへ飛び去っておしまいになり、そのうえご自分の抜骸《ぬけがら》に、こんな意地悪い仕草《しぐさ》をさせるなんて、あまりと云えば皮肉ではございませんか。今までも、ときおり貴方の小さな跫音《あしおと》を聴いて、私は何度か不安になりましたけれども、いよいよ今日という今日は、貴方の影法師をしっかと見てとりました。救護所で発した高代という言葉は、まさしく不意の明るみが因《もと》で、鵜飼の腸綿《ひゃくひろ》から放たれたものに相違ございません。そして、いま時江さんが耳にしたものは、貴方が催眠中、お母様の瞳に映った文字を読んだからなのです。ねえこれと同じ例が、仏蘭西《フランス》の心理学者ジャストロ
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