時江は嫂《あね》の素振りにいよいよ心元なく、ためらいながら吃《ども》りながらも、哀訴を続けた。
「後生ですわ、お嫂《ねえ》さま。どうかわたしをかばってくださいまし。私を、もうそんなに苦しめないで、承知してくださいましな」
「いいえいいえ、私にはできません。それはどうあってもできないことです」と滝人が、無性にいきばって首を振っているうちに、あの焔に勢いを添えようとするものが、いよいよ猛り立ってきた。すると、時江の声が、それなりちょっと杜絶えたかと思われたが、やがてぞくぞくと震えだしてきて不審なことに、彼女は酔いしれたように上気してしまった。
「いいえ、もうおっしゃらないでください。私、お嫂《ねえ》さまに、一つの証を立てますわ。鉄漿《はぐろ》をつけます。かねてお嫂さまのお望みどおりに、私、鉄漿をつけますわ。そして、お嫂さまと一緒に、どこへなりと、お好きな夢の国にまいりますから……」
そして、相手が何も云わぬのに、独《ひと》り合点《がてん》して、いつか滝人が忘れていった、早鉄漿《はやがね》の壺に鏡を取り出してきた。そして立膝《たてひざ》にした両足を広く踏み開き、小指にちょんぴりとつけた黒い脂《あぶら》で、前歯に軽く触《さわ》ると、時江はその一点の斑《まだら》にさえ、自分の裸身を見るような驚異を感じた。それが秘密な部分にある黒子《ほくろ》みたいで、ちょっと指先で持ち上げたいような、可笑《おか》しさはあったけれども、やがてその黒い斑点が拡がりゆくにつれて、時江はハッハッと獣のような息を吐きはじめ、腰から上をもじもじ廻しはじめた。のみならず、一本芯の洋燈《ランプ》は仄暗いけれども、その光が、額から頬にかけて流れている所は、キメをいっそう細やかに見せていた。もう時江は、自分自身でさえも、その媚《なま》めいた空気に魅せられてしまって、鉄漿《かね》をつける小指の動きを、どうにも止めようがなくなってしまった。しかし、滝人の眼から見ると、そこには魔法のような不思議な変化が現われていったのである。
と云うのは、白と灰色とで段だらにした格子の間を、真黒に塗り潰してしまうと、その灰色がまったく白ちゃけてしまうのであるが、この場合も、それと同じ色彩の対比であろうか。皓歯《しらは》の輝きが一つ一つ消え行くにつれて、それに取って代った天鵞絨《びろうど》のような斑《まだら》が、みるみる顔一面に滲み拡がっていった。すると、不思議な事には、頬の窪みにすうっと明るみが差し、細やかな襞《ひだ》や陰影が底を不気味に揺り上げてきて、わずかに耳の付け根や、生え際のあたりにだけ、病んだような微妙な線が残されるばかりになった。そうして、隆起したくびれ肉からは、波打つような感覚が起ってきて、異様に唆《そそ》りがちな、まるで繻子《しゅす》のようにキメの細かい、逞《たくま》しい肉付きの腰みたいに見えた。滝人は、もうどうすることもできず、見まいとして瞼《まぶた》を閉じた。すると、また暗黒の中で、それが恐ろしくも誇張された容《かたち》となって現われ、今や十四郎のありし日の姿が、その顔の中に永久住んでゆくかのごとく思われるのだった。そうした、とうてい思いもつかなかった喜ばしさの中で、なぜか滝人は、ぞくぞく震えていたのである。身も心も時江に奪われて、十四郎そっくりの写像が、眼前にちらつくのを見ると、そうして生れた新しい恋愛に、彼女の心は、一も二もなく煽り立てられた。滝人は、もう前後が判らなくなってしまったが、絶えずその間も、熱に魘《うな》されて見る、幻影のようなものがつき纏《まと》っていて、周囲の世界が、しだいに彼女から飛びさるように思われると、そのまま滝人は、狂わしい肉情とともに取り残されてしまったのである。が、その時、残忍な狡猾な微笑が、頬に泛《うか》び上がってきて、滝人の顔は、以前どおりの険しさに変ってしまった。それはちょうど、悪狡《わるがしこ》い獣が耳を垂れ、相手が近づくのを待ち構えているようであった。ところが、その図星が当って、鉄漿《はぐろ》をつけ終り、ふと滝人の顔を見ると、その瞬間時江は、喪心したようにクタクタになってしまった。彼女には、もうとりつく島もないではないか。嫂《あね》の気持を緩和しようとしたせっかくの試みが、それでさえいけないのだったら、いったい彼女はどうしたらいいのだろう。いつか、兄夫婦の間に始まるであろう争《いさか》いの余波が、彼女にどのような惨苦をもたらすか、知れたものではないのである。すると時江には、もうこのうえ手iと云って、ただ子供のように嫂《あね》の膝に取り縋《すが》り、哀訴を繰り返すよりほかにないのだった。
「それではお嫂《ねえ》様、私に教えてちょうだい。そのお顔を柔らかにしてから、私がどうすればいいのか、教えてちょうだい」
「ああ十四郎、貴方はそこに
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