白蟻
小栗虫太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)蜿々《えんえん》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)淵上武士の頭領|西東蔵人尚海《さいとうくらんどしゃうかい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#本文中、伏せ字は「*」で表した。]
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[#本文中、伏せ字は「*」で表した。]
序《はしがき》
かようなことを、作者として、口にすべきではないであろうが、自分が書いた幾つかのなかでも、やはり好きなものと、嫌いなものとの別が、あるのは否まれぬと思う。わけても、この「白蟻」は、巧拙はともかく、私としては、愛惜|措《お》く能わざる一つなのである。私は、こうした形式の小説を、まず、何よりも先に書きたかったのである。私小説《イヒ・ローマン》――それを一人の女の、脳髄の中にもみ込んでしまったことは、ちょっと気取らせてもらうと、かねがね夢みていた、野心の一つだったとも云えるだろう。
のみならず、この一篇で、私は独逸歌謡曲《ドイツ・リード》特有の、あの親しみ深い低音に触れ得たことと思う。それゆえ私が、どんなにか、探偵小説的な詭計《からくり》を作り、またどんなにか、怒号したにしても、あの音色《ねいろ》だけは、けっして殺害されることはないと信じている。ただ惜しむらくは、音域が余りに高かったようにも思われるし、終末近くになって、結尾の反響が、呟くがごとく聴えてくる――といったような見事な和声法は、作者自身|動悸《どうき》を感じながら、ついになし得なかったのである。
私は、この一篇を、着想といい譜本に意識しながら、書き続けたものだが、前半は昨年の十二月十六日に完成し、後半には、それから十日余りも費やさねばならなかった。それゆえ読者諸君は、女主人公滝人の絶望には、真黒な三十二音符を……、また、力と挑戦の吐露には、急流のような、三連音符を想像して頂きたいと思う。
なお、本篇の上梓について、江戸川・甲賀・水谷の三氏から、推薦文を頂いたことと、松野さんが、貧弱な内容を覆うべく、あまりに豪華な装幀をもってせられたことに、感謝しておきたいと思う。
一九三五年四月
世田ケ谷の寓居にて
著者
序、騎西一家の流刑地
秩父《ちちぶ》町から志賀坂峠を越えて、上州神ヶ原の宿《しゅく》に出ると、街を貫いて、埃《ほこり》っぽい赤土《あかつち》道が流れている。それが、二子《ふたご》山麓の、万場《ばんば》を発している十|石街道《こくかいどう》であって、その道は、しばの間をくねりくねり蜿々《えんえん》と高原を這いのぼっていく。そして、やがては十石峠を分水嶺に、上信《じょうしん》の国境を越えてゆくのだ。ところが、その峠をくだり切ったところは、右手の緩斜《かんしゃ》から前方にかけ、広大な地峡をなしていて、そこは見渡すかぎりの荒蕪《こうぶ》地だったが、その辺をよく注意してみると、峠の裾寄りのところに、わずかそれと見える一条の小径《こみち》が岐《わか》れていた。
その小径は、毛莨《きんぽうげ》や釣鐘草《つりがねそう》や簪草《かんざしぐさ》などのひ弱い夏花や、鋭い棘のある淫羊※[#「※」は「くさかんむり+霍」、82−9]《いかりそう》、空木《うつぎ》などの丈《たけ》低い草木で覆われていて、その入口でさえも、密生している叢《くさむら》のような暗さだった。したがって、どこをどう透し見ても、土の表面は容易に発見されず、たとい見えても、そこは濃い黝《くろず》んだ緑色をしていて、その湿った土が、熱気と地いきれとでもって湧き立ち、ドロリとした、液のような感じを眼に流し入れてくる。けれども、そのように見える土の流れは、ものの三尺と行かぬまに、はや波のような下生えのなかに没し去ってしまう。が、その前方――半里四方にも及ぶなだらかな緩斜は、それはまたとない、草木だけの世界だった。そこからは、熟《う》れいきれ切った、まったく堪《たま》らない生気が発散していて、その瘴気《しょうき》のようなものが、草原の上層一帯を覆いつくし、そこを匂いの幕のように鎖していた。しかし、ここになによりまして奇異《ふしぎ》なのは、そこ一帯の風物から、なんとも云えぬ異様な色彩が眼を打ってくることだった。それが、あの真夏の飽和――燃えさかるような緑でないことは明らかであるが、さりとてまた、雑色でも混淆《こんこう》でもなく、一種病的な色彩と云うのほかになかった。かえって、それは、心を冷たく打ち挫《ひし》ぎ、まるで枯れ尽した菅《すげ》か、荒壁を思わす朽樹《くちき》の肌でも見るかのような、妙にうら淋《さび》れた――まったく見ていると、その暗い情感が、ひしと心にのしかかってくるのだった。
云うまでもなく、それには原因があって、この地峡も
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