たしかに、人と植物の立場が転倒しているからであろう。いや、ただ単に、その人達を喚起するばかりではなかった。わけても、その原野の正確な擬人化というのが、鬼猪殃々《おにやえもぐら》の奇態をきわめた生活のなかにあったのである。
あの鬼草は、逞《たくま》しい意欲に充ち満ちていて、それはさすがに、草原の王者と云うに適《ふさ》わしいばかりでなく、その力もまた衰えを知らず、いっかな飽《あ》くことのない、兇暴|一途《いちず》なものであった。が、ここに不思議なことと云うのは、それに意志の力が高まり欲求が漲《みなぎ》ってくると、かえって、貌《かたち》のうえでは、変容が現われてゆくのである。そして不断に物懶《ものう》いガサガサした音を発していて、その皮には、幾条かの思案げな皺《しわ》が刻まれてゆき、しだいに呻《うめ》き悩みながら、あの鬼草は奇形化されてしまうのであった。
明らかに、それは一種の病的変化であろう。また、そのような植物妖異の世界が、この世のどこにあり得ようと思われるだろうが、しかし、騎西|滝人《たきと》の心理に影像をつくってみれば、その二つがピタリと頂鏡像のように符合してしまうのである。まったく、その照応の神秘には、頭脳が分析する余裕などはとうていなく、ただただ怖れとも駭《おどろ》きともつかぬ異様な情緒を覚えるばかりであった。けれども、それがこの一篇では、けっして白蟻の歯音を形象化しているのではない。たしかに、一つの特異な色彩とは云えるけれども、しかし土台の底深くに潜んでいて蜂窩《はちす》のように蝕《むしば》み歩き、やがては思いもつかぬ、自壊作用を起させようとするあの悪虫の力は、おそらく真昼よりも黄昏《たそがれ》――色彩よりも、色合い《ニュアンス》の怖ろしさではないだろうか。
しかし、作者はここで筆を換えて、騎西一家とこの地峡に関する概述的な記述を急ぎ、この序篇を終りたいと思うのである。事実、晩春から仲秋にかけては、その原野の奥が孤島に等しかった。その期間中には、一つしかない小径が隙間なく塞がれてしまうので、交通などは真実思いもよらず、ただただ見渡すかぎりを、陰々たる焔《ほのお》が包んでしまうのだ。しかし、もう一段眺望を高めると、その沈んだ色彩の周縁《ぐるり》が、コロナのような輝きを帯びていて、そこから視野のあらんかぎりを、明るい緑が涯もなく押し拡がってゆく。地峡は、草原の前方あたりで、小法師岳の裾を馬蹄形《かなぐつがた》に迂廻してゆき、やがては南佐久の高原中に消えてしまうのであるが、その小法師岳は数段の樹相をなしていて、中腹近くには鬱蒼《うっそう》と生い繁った樅《もみ》林があり、また樹立のあいだには小沼があって、キラキラ光る面が絶《き》れ切れに点綴されているのだ。そして、そこから一段下がったまったくの底には黒い扁平《ひらた》い、積木をいくつも重ねたようにみえる建物があった。
それは、一山支配《ひとやましなべ》当時の遺物で、郷土館であったが、中央に高い望楼のある母屋を置いて、小さな五つあまりの棟がそれを取りかこみ、さらにその一画を白壁の土塀が繞《めぐ》っていた。だがもし、その情景を、烈々たる陽盛りのもとに眺めたとすれば、水面から揺らぎあがってくる眩いばかりの晃耀《くわうえう》[#底本のまま]が、その一団の建物を陽炎《かげろう》のように包んでしまい、まったくそこには、遠近高低の測度が失われて、土も草も静かな水のように見える。また建物はその上で揺るぎ動いている、美しい船体としか思われなくなってしまうのだった。そうして、現在そこには、騎西一家が棲んでいる――と云うよりも、代々|馬霊《ばれい》教をもって鳴るこの南信の名族にとれば、むしろ悲惨をきわめた流刑地と云うのほかにはなかったのである。
ところで、騎西一家を説明するためには、ぜひにも馬霊教の縁起を記さなければならない。その発端を、文政十一年十月に発していて、当時は騎西家の二十七代――それまで代を重ねての、一族婚が災したのであろうか、その怖ろしい果実が、当主熊次郎に至り始めて結ばれた。それが、今日の神経病学で云う、いわゆる幻覚性偏執症だったが、偶然にもその月、彼の幻覚が現実と符合してしまった。そして、夢中云うところの場所を掘ってみると、はたしてそこには、馬の屍体が埋められてあった。と云うのが、一種の透視的な驚異を帯びてきて、それから村里から村里の間を伝わり、やがて江戸までも席捲《せっけん》してしまったというのが、そもそもの始まりである。その事は「馬死霊祓《ばしれいはらい》柱之珂玲《はしらのあかれいの》祝詞《のりと》」の首文とまでなっていて、『淵上村神野毛《ふちがみむらかみのげに》馬埋有上《うまうずめありて》爾|雨之夜々《あめのよよ》陰火之立昇依而《いんかのたちのぼるによって》文政十一
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