年十一月十四日騎西熊次郎|依願祭之《ねがいによってこれをまつる》』という以上の一文によっても明らかであるが、さらにその祝詞《のりと》は、馬の死霊に神格までもつけて、五瀬霊神と呼ぶ、異様な顕神に化してしまったのである。
 しかし、その布教の本体はと云えば、いつもながら、淫祠《いんし》邪教にはつきものの催眠宗教であって、わけても、当局の指弾をうけた点というのが、一つあった。それは、信者の催眠中、癩《らい》に似た感覚を暗示する事で、それがために、白羽の矢を立てられた信者は、身も世もあらぬ恐怖に駆られるが、そこが、教主くらの悪狡《わるがしこ》いつけ目だった。彼女は得たりとばかりに、不可解しごくな因果《いんが》論を説き出して、なおそれに附け加え、霊神より離れぬ限りは永劫《えいごう》発病の懼《おそ》れなし――と宣言するのである。けれども、もともと根も葉もない病いのこととて、どう間違っても発病の憂《うれ》いはないのであるから、当然そういった統計が信者の狂信を煽り立てて、馬霊教の声望はいやが上にも高められていった。ところが、その矢先、当局の弾圧が下ったのである。そして、ついに二年前の昭和×年六月九日に、当時復活した所払《ところはら》いを、いの一番に適用されたので、やもなく騎西一家は東京を捨て、生地の弾左谿《だんざだに》に帰還しなければならなくなってしまった。
 その夜、板橋を始めにして、とりとめがたい物の響が、中仙道《なかせんどう》の宿《しゅく》々を駭《おどろ》かしながら伝わっていった。その響は雷鳴のようでもあり、行進の足踏みのようにも思えたけれど、この真黒な一団が眼前に現われたとき、不意に狂わしげな旋律をもった神楽《かぐら》歌が唱い出され、それがもの恐ろしくも鳴り渡っていった。老い皺ばった教主のくらを先頭にして、長男の十四郎、その側《かたわら》に、妙な籠《かご》のようなものを背負った妻の滝人、次男である白痴の喜惣《きそう》、妹娘の時江――と以上の五人を中心に取り囲み、さらにその周囲《ぐるり》を、真黒な密集が蠢《うごめ》いていたのである。その千にも余《あま》る跣足《はだし》の信者どもは、口を真黒に開いていて、互いの頸《くび》に腕をかけ、肩と肩とを組み、熱意に燃えて変貌したような顔をしていたが、その不思議な行進には佩剣《はいけん》の響も伴っていて、一角が崩されると、その人達はなおいっそう激昂して蒼白くなるが、やがてそうしているうちに、最初は一つだった集団が、幾つにも、水銀の玉のように分れてゆくのだった。しかし、信者の群は、なおも闇の中から、むくむく湧き出してくるのだったけれども、それが深谷《ふかや》あたりになると、大半が切り崩されてしまい、すでに神ヶ原では、五人の周囲に人影もなかった。
 かくして、一種の悲壮美が、怪教馬霊教の終焉《しゅうえん》を飾ったのだったが、その五人の一族は、それぞれに特異な宿命を背負っていた。そればかりでなく、とうに四年前――滝人が稚市《ちごいち》を生み落して以来というものは、一族の誰もかもが、己れの血に怖ろしい疑惑を抱くようになってきて、やがては肉も骨も溶け去ってしまうだろうと――まったく聴いてさえも慄然《ぞっ》とするような、ある悪疫の懼《おそ》れを抱くようになってしまった。そうして、そのしぶとい相克が、地峡のいいしれぬ荒廃と寂寥《せきりょう》の気に触れたとすれば、当然いつかは、狂気とも衝動ともなりそうな、妙に底からひたぶりに揺り上げるようなものが溜ってきた。事実騎西一家は、最初滝人が背負ってきた、籠の中の生物のために打ち挫《ひし》がれ、続いてその残骸を、最後の一滴までも弾左谿が呑《の》み尽してしまったのである。
 さて、騎西家の人達は、そのようにして文明から截《た》ち切られ、それから二年余りも、今日まで隠遁《いんとん》を破ろうとはしなかった。が、そうしているうちに、この地峡の中も、しだいにいわゆる別世界と化していって、いつとなく、奇怪な生活が営まれるようになった。ところが、その異常さというのがまた、眼に見えて、こうと指摘できるようなところにはなかったのである。現に、この谿間《たにま》に移ってからというものは、騎西家の人達は見違えるほど野性的になってしまって、体躯《からだ》のいろいろな角が、ずんぐりと節くれ立ってきて、皮膚の色にも、すでに払い了せぬ土の香りが滲み込んでいた。わけても、男達の逞《たくま》しさには、その頸筋を見ただけで、もう侵しがたい山の気に触れた心持がしてくる。それほど、その二人の男には密林の形容が具わってきて、朴訥《ぼくとつ》な信心深い杣人《そまびと》のような偉観が、すでに動かしがたいものとなってしまった。
 したがって、異常とか病的傾向とかいうような――それらしいものは、そこに何ひとつ見出されないのが
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