足の下に、仔鹿《かよ》の生々しい血首をみた。その瞬間一つの恐ろしい観念が、滝人を波濤《はとう》のように圧倒してしまった。身にも心にも、均衡を失ってしまって、思わず投げ出されたように、地面に這いつくばった。そして、頬を草の根にすりつけ、冷々《ひえびえ》とした地の息を嗅ぎながら、絶えず襲い掛かってくる、あの危険な囁きから逃れようと悶《もだ》えた。
そこには、腐爛しかかった仔鹿《かよ》の首から、排泄物のような異臭が洩れていて、それがあの堪えられぬ、産の苦痛を滝人に思い出させた。しかし、現在の十四郎が、真実の変貌という事になってしまうと、あの物凄い遊戯をしてまで、時江に植えつけた美しい幻像は、いったいどうなってしまうのであろう。二人の十四郎――そこで滝人は、たちまちどうにも抜き差しのならない疑題に直面してしまった。すると、しんしんとあの歓喜が舞い戻ってきて、暗い光明のない闇の中から、パッと差し込んできた一条の光があった。滝人は、まるで夢魔に襲われたような慌《あわ》てかたで、すっと立ち上がった。この孤独な地峡の中で、甲斐《かい》のある生存を保っていくには、何よりあの腫物《はれもの》を除かねばならない。あの美醜の両面は、それぞれに十四郎の、二つの人生を代表している。けれども、その二つを心の上に重ねてゆくとするには、あまりに鉄漿《はぐろ》をつけた時江が、十四郎そのものであり(以下二三七字削除)現在の十四郎には生存を拒まねばならない――その物狂わしさは、倒錯などというよりも、むしろ心の大奇観だったであろう。まったく、この不思議な貞操のために、滝人はある一つの、恐ろしい決意を胸に固め、十四郎のために、十四郎を殺さねばならなくなってしまったのである。しかし、そうなると、たとえ十四郎だけを除いたにしても、それに続いて、なお喜惣が舌なめずりしているのを考えねばならなかった。さらにその二人が除かれたにしても、その間の関係を知り尽している母のくら――いやその舌が、なおその背後に待ち構えているのも忘れてはならない。すると、その三重の人物が、滝人の頭の中で絡み合ってきて、それをどういうふうに按配《あんばい》したらいいのか――そうしてしばらくのあいだ、それぞれに割付けねばならない、役割の事で悩まねばならなかった。しかしそのようにいろいろな考えが、成長しては積り重なってゆくうちに、どれもこれも纏《ま
前へ
次へ
全60ページ中50ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング