は、後の一つを見まいとして、眼を瞑《つむ》った。しかし、その真黒な瞳の中で、やはり同じような叫びを、時江が彼女に答えてくれるのを、しみじみ聴いていた。滝人は、慄《ぞ》っと擽《くすぐ》られるような幸福感に襲われたが、またあの病苦がしんしんと戻ってきて、一つ残された義務を果さねばならないのに気がついた。十四郎の寝間には、もう死の室《へや》のような沈鬱さを、滝人は感じなかった。しかし、長針をぐるぐる廻して、それから、
「八――九――それから最後には、長針を六時に……」と滝人が、針をぴたりと垂直に据え、盤面から指を引いたときだった。そのとき不思議な事には、あれほど逐《お》いきれなかった蠅の唸《うな》りがピタリと止んでしまい、その蔭から、滂沱《ぼうだ》と現われ来《きた》った不安が、彼女を覆い包んでしまった。最初そこから低い囁きが聴え、しだいに高まってくると、やがて圧したように、滝人を動けなくしてしまったのである。しかし、彼女の病的な神経は、いちいちその相手になって、たまらない応えを喋《しゃべ》りはじめた。
鉄漿《はぐろ》――あるいはそうではないかしら。たとえ黙語にしても、その一番強い発音が声帯を刺激するとどのように類似した言葉でも、その印象の蔭に、押し隠されてしまうと云うではないか。その忘却の心理には、きわめて精密な機構があって、同じ発音の言葉でも、抑揚《アクセント》が違う場合には、一時ことごとく記憶の圏外に擲《な》げ出されてしまう。そうではないか。したがって(八[#「八」ゴシック体](はち)――九[#「九」ゴシック体](く)――六[#「六」ゴシック体](ろく)と)記憶をしいた一連のうちで、冒頭のは[#「は」ゴシック体に傍点]とく[#「く」ゴシック体に傍点]とろ[#「ろ」ゴシック体に傍点]が、あるいは盲点を、鉄漿《はぐろ》という観念の上に設けていたかもしれないのである。そうすると滝人には、鉄漿に関する知識が泉のように溢れてきて、あの皺に見えたというのも、その実、鉄漿かぶれ(鉄漿を最初つけたときに、あるいは全身に桃色斑点を発することがあるけれども、それは半昼夜経つと消えてしまう)の斑紋だったかもしれないし、また歯が脱けていて、そこが洞《ほら》のように見えたというのも、あるいは歯抜けの扮装術(「苅萱桑門筑紫蝶」その他の扮装にあり)そのままに、鉄漿《はぐろ》の黝《くろ》みが、洞の
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