しまうのです」
八、九、六――その唸《うな》りが、それが一匹の蠅ででもあるかのように、頭の中を渦巻いて拡がっていった。すると、滝人は不意に胸苦しくなってきて、何か忘れてならないものを忘れているのではないか――となんとなく鬱然とはしているけれども、それでいて鈍く重たげな、必ず何かあるぞあるぞ――といったような不安を感じはじめてきた。しかし、どう焦ってみても、結局蠅の唸りのようなものに遮られて、滝人はその根源を確かめることができなかった。そして、しだいに時刻も迫ることとて、もう少し静かにして――と思ってみても、それが彼女には許されなかったのである。滝人は、指針を廻すのをまず後廻しにして、そっと振子だけを手拭いにくるみ、それから、くらの寝間に赴いた。
しかし、そこにも光はなかった。暗さという暗さを幾層にも重ね合わせたように、しぶとい暁前の闇が行手を遮っているのだった。そこで、滝人は決心をして、雨戸のうえの桟窓を、そっと細目に開いた。すると、蜘蛛《くも》糸のような一条《ひとすじ》の光線が隙間から洩れて、それが蚊帳《かや》を透し、皺ばった頬のうえに落ちた。滝人はしばらく動悸《どうき》を押さえ、死の番人のように、その顔を黙視していた。が、やがて眼が微光の眩《ひらめ》きに慣れるにつれて、それが疑いもなくくらであり、しかも歯のない口をあんぐりと開いて、そこからすやすや、寝息が洩れているのを知った。と、滝人の手が――こうも一つの殺人が神経を鈍麻させたかと思われるほど――機械的に動いていって、振子の上に布片《ぬのきれ》を幾重にも捲き、その先の剣針を歯齦《はぐき》の間に置いて、狙いを定めくらの咽喉《のど》深くにグサリと押し込んだ。そして、素早く掻巻《かいま》きを顔の上に冠《かぶ》せて、滝人はその上にのしかかったが、むろん振子のために舌が動く気遣いはなく、わずかに四肢を、ぶるると顫《ふる》わせたのみで、動かなくなってしまった。こうして、一尺と隔たっていない所に、時江を置いての不敵きわまる犯行が成功を遂げ、もはや滝人は、凱歌を包み隠すことができなくなってしまった。戸外に出ると、対岸の山頂が微かな光に染み、そこから夏の日特有の微温《ぬく》もった曙《あけぼの》が押し拡がろうとしている。星は一つ一つ、東空から天頂にかけて消え行ったが、それが三つになったとき、ふと妙な迷信的な考えに襲われた。滝人
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