のような事物の位置一つに、十四郎の死地が口を開いていたのである。
 それから滝人は永いこと、蚕室の階段に突っ立っていた。そしてじっと神経を磨ぎ澄まし、何か一つの物音を聴き取ろうとするもののようであった。そこは、空気の湿りを乾草が吸い取ってしまうためか、闇が粘《ね》とついたようにじめじめしていて、時おり風に鳴ると、枯草が鈴のような音を立てる。しかし、滝人の足元には、もう一つ物音があって、彼女は絶えずそれに眼を配り、少しでも遠ざかると紐を手繰《たぐ》っては、何か人馴れた生物のようなものを、扱っていた。それが、唖《おし》の変形児|稚市《ちごいち》だったのである。が、それを見ると、滝人は吾が児《こ》までも使い、夫の死に何かの役目を勤めさせようとするのであろう。しかし、その間滝人は、いつものような内語を囁きつづけていた。
「貴方《あなた》、私はあの醜い生物《いきもの》を、これから絞首台に上《のぼ》させようとするのです。もし人格と記憶が生存の全部だといたしますなら、死後の清浄という意味からでも、私をお咎《とが》めにはなりますまいね。いいえ、これで貴方は、まったく清らかになれるのですわ。稚市に芽ばえたものを、やはり終いにも、この子が刈り取ってくれるのですから、もうすぐと、あの生物の眼には、高代という魔法の字が映るに相違ないのです。どこにでしょうか。しかもそれは、二度現われるはずなのです。ときに、『反転的遠景錯覚《イリュージョン・オブ・リヴァシブル・パースペクチヴ》』という、心理学上の術語をご存知でいらっしゃいまして。では、試しに名刺を二つに折って、その内側になったほうを、かしげながら片目で眺めて御覧あそばせな。きっとそれが、折った外側のように見えるはずなのですから。つまり、内角が外角に変ってしまうのですが、いまあの生物は引ん曲った溝を月の山のようにくねらせて、それは長閑《のどか》な、憎たらしい高鼾《たかいびき》をかいておりますの。でも、すぐ眼が覚めて、それからこちらへ、引き摺られるようにやって来るに相違ありませんわ。なぜかって、よくこんなそらぞらしい気持で、私が云えるかって。だって、そうでございましょう。稚市とあの男と、いったいどこが違っておりますの。ただ片方は光に背を向け、あの男の方はそれを慕って、何かの植物のような向光性《トロピズム》があるだけなんですものね。いえ、もうすぐに
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