。でも、こういう時は、誰でもそうよ。誰でも、感傷が先走って、悲しくなるものですわ。もう、あなたとはお目に掛れないでしょうから」
「そうでしょう。僕も大塩沙漠《ダシュト・イ・カヴィル》へゆきますから……」
 ザチは、それなり去ってしまったのである。妙な女だ、脅してみたり泣いてみたり――と思うだけで、いま大塩沙漠ゆきをうっかり洩らしたことには、彼はてんで無関心であったのだ。その数週後、イランのテヘランへゆき準備を整え、見えない焔の塩の沙漠へむかったのである。
 まず、そこまでの炎熱の高原。大地は灼熱し、溶鉱炉の中のよう。きらきら光る塩の、晦《くら》むような眩《まば》ゆさのなか。
 その、土中の塩分がしだいに殖えてゆくのが、地獄の焦土のようなまっ赭《か》な色から、しだいに死体のような灰黄色に変ってゆく。やがて塩の沙漠の外れまできたのである。そこは、一望千里という形容もない。晃耀《こうよう》というか陽炎というか、起伏も地平線もみな、閃きのなかに消えている。ただ、天地一帯を覆う、色のない焔の海。
「そろそろ、儂らも焼けてきそうな気がするよ」
 とセルカークがフウフウ言いながら、もうこれ以上はというように、折竹をみる。
「死ぬだろうよ。日中ゆけば燃えてしまうだろう」
「脅かすな」
 とセルカークは心細そうに笑って、
「頼むよ。俺は君に、全幅の信頼をかけている」
「マアね、君を燃やすことは万が一にもあるまいが……、とにかく、われわれは日中を避けねばならん。夜ゆく。それで、今夜の強行軍でどこまで行けるかということが、覗き穴発見のいちばん大切なところになる。ねえ、地図でみると、台地があるね。ちょうど真中辺で、奇怪な形をした……」
「ふん、“Yazde Kubeda《ヤツデ・クベーダ》”か。その『神々敗れるところ』というペルシア語の意味から、あすこは『驕魔台《ヤツデ・クベーダ》』とかいわれている」
「そうだ。で、これは僕のカンにすぎないがね。得てして、ああいう所には裂け目があるもんだ。まず覗き穴は、彼処《あそこ》らしいといえるだろう。するとだよ、然らば黒焦げになる日中はどうするか。それは、深い穴を掘ってじっと潜っている。マアそれで、体力が続くのは一日ぐらいだろうから、夜になったら強行軍で逃げるのさ」
「驚いた」
 とセルカークはパチパチと瞬いて、
「じゃ、途中で夜が明けたら、焦げてしまうんだね。決勝点《ゴール》を間近にみながら黒焼になるなんて、情けない事には是非ならないで欲しいよ」
 そうして、夜は零度をくだる沙漠の旅がはじまった。万物声なくただ動いているのは、二人の影と頭上の星辰《せいしん》のみ。と、やや東のほうが白みかけてきたころだった。地平線上にぽつりと見える一点。
「こりゃ、いかん。驕魔台《ヤツデ・クベーダ》へゆかぬうちに、夜が明けてしまう。おい俺たちはまんまと失敗《しくじ》ったぞ」
 まったく、痛恨とはこの事であろう。みすみす、目前にみながら此処が限度となると、両様意味はちがうが、二人の嘆きは。……宝の山の鰻《うなぎ》のにおいを嗅ぐ、セルカークはことにそうであった。
「畜生、せっかく此処まで来てとは、なんてえこった。オクタン価八〇、最良|航空用燃料《ギャス》もなにも、夢になりおった。オヤッ、ありゃ折竹君、なんだね」
 と、指差された薄明の地平線上。突兀《とっこつ》とみえる驕魔台《ヤツデ・クベーダ》のうえに、まるで目の狂いかのような、人影がみえるのだ。早速、双眼鏡でみているうちに暁はひろがってゆく。しかし、死の原のここに、鳥の声はない。ただ、薄らぐ寒さと魔性のような人影。やがて、折竹はボロリと眼鏡を落し、
「ザチ」
 と、さながら放心したような呟き、
「ザチ※[#疑問符感嘆符、1−8−77] いったい何のこったね」
 とセルカークが訊いても聴えぬかのように、
「覗き穴はある。ザチはソ連の女ではなかった。真実、『大盲谷』に住むキンメリアの女王。おい、セルカーク、あれを見ろ」
 いわれて、目をこすりこすり驕魔台《ヤツデ・クベーダ》のうえをみると、今いた――ほんの秒足らずの瞬前までくっきりと見えていた、ザチの姿が掻き消えたように見えないのだ。覗き穴、彼女は「大盲谷」へ降りたのだろう。しかし、追おうにも、暁は濃い。朝の噴射とともに熱殺界となる、此処ではどうにもならないのだった。
 しかし、驕魔台のうえでザチを発見したことから、いよいよ「大盲谷」の実存性が濃くなってきた。そうしてこれには、むしろ手も付けられない塩の沙漠よりかも、「大地軸孔《カラ・ジルナガン》」のほうを攻撃してはと、なったのだ。そのころ、大地軸孔探検についての、国際紛争が解決した。英ソ双方とも監視者をだすことになり、英はセルカーク、ソ連は、極氷研究家のオフシェンコという男。また、折竹もセルカークの計いで、この探検に隊長として加わったのである。
 沙漠、峻嶮、寒熱二帯の両極をもつアフガニスタン。慓悍無双といわれるヘタン人の人夫をそろえ、いよいよヒンズークシの嶮を越え「パミールの管」といわれる、英ソの緩衝地帯を「大地軸孔」へ進んだのである。いまは、高山生活一か月にまっ黒に雪焼けをし、蓬々《ほうほう》と伸びた髯《ひげ》を嶽風がはらっている。
 そしてちょうど、カプールを発った五十日目あたりに、温霧谷《キャム》の速流氷河の落ち口にでたのだ。
「凄い。ここでは、氷だけが生物《いきもの》だ」
 ※[#「釐」の「里」を「牛」にしたもの、第3水準1−87−72]牛《ヤク》のミルクを飲み飲み、断崖のくぼみから、幹部連が泡だつ氷河をながめている。氷に、泡だつという形容はちと変であるが、この氷河の生きもの的性質を、説明するのはそれ以外にはない。
 噛みあう氷罅《クレヴァス》、激突する氷塔の砕片。それが、風に煽《あお》られて機関銃弾のようになり、みるみる人夫の顔が流血に染んでゆくのだ。まさに流れる氷帯ではなく、氷の激流。ここだけは、永遠に越えられまいと思われた。

   大地軸孔の悲歌

「君、ちょっと折り入っての話がある」
 隊が立往生をしてから、一か月後のある夜。こっそり折竹の天幕《テント》へ、セルカークが入ってきた。彼は、周囲をたしかめてから、密談のような声で、
「取らぬ狸の、皮算用かもしれんがね。いずれは大盲谷の油層が、われわれの手に入るだろう。しかし、そうなったとき分け前が出るようじゃ、儂《わし》は馬鹿馬鹿しいと思うんだよ」
「へえ、というのはどういう意味だね」
「それは、オフシェンコのことだ」
 とセルカークはいっそう声を低め、
「奴は、最後まで頑張るといっている。けさ、君とヒルト博士が大喧嘩をした後で、こっそり奴の意見を聴いてみたんだよ。するとだ、奴は馬鹿に昂然としてね。――任務だ、最後まで君らと共に――なんてえ、えらい鼻息なんだ」
 その日の朝、温霧谷の速流氷河の攻撃時期について、彼と独逸航空会社のヒルトとが大激論をした。ヒルトは、速流氷河をわたる方法なしと言う。これは練達山岳家としての当然の論。それに反して、季節風《モンスーン》の猛雨が始まったら登行をするという、この折竹の説は暴論といおうか、まことに、常識外れの馬鹿馬鹿しいものだった。そして、ついに隊は二つに割れ、わずかな人夫を残すほか、引き上げることになったのだ。
 そのころは、もう七月にちかく、邪風モンスーンの跫音がくらい雲行から、吹くぞ、薙ぐぞというように、聴えるような気がする。ヒマラヤ・カラコルムに吹きつける、狂暴な西南風《ならい》。大雨、烈風となる最悪の時期に、折竹は速流氷河をわたると言う。
 狂ったか。見す見す死ににゆくような折竹の胸に、あるいはこの狂自然を征服するに足る鬼策が蔵されているのではないか。で、結局のこったのは折竹、セルカーク、それにソ連からの監視者オフシェンコの三人。セルカークは、また言うのである。
「それでだよ。儂も、殺るとか除くとかいうようなことは、この際したくない。一つ、君によく説いてもらって、ヒルトらと一緒に帰そうと思うんだ」
「そうか」
 と折竹は暫く黙っていた。あれ以来、ますます人相にも奸黠《かんかつ》の度を加えてきた、セルカークを憫《あわれ》むようにながめている。ただ、氷河の氷擦が静寂《しじま》を破るなかで……。
「どうだ。たがいに運だけは、無駄にせんように、しようぜ。百億人に一人、千万年に一度、あるかなしかというような、どえらい[#「どえらい」に傍点]もんだから……」
「勝手だ」
 と折竹は吐きだすように、言った。
「大体、僕の計画にしてからが、九分どおりが運なんだ。妙に、度胸がいいのが玉に瑕《きず》かもしらんが、これも千万年に一度、百億人に一人ど偉い馬鹿みたいなのが出たとき、言いだすような事だ。ねえ、まず吾々は九分通り、死ぬだろう」
「脅かしちゃ、いかん」
「いや、すべては渡れてからのことだ。しかし、僕は君よりも、オフシェンコを、尊敬する。ただ任務――とは、偉い!」
 不興気に出てゆくセルカークの向うに、大地軸孔の怪光があがっている。ぶよぶよ動く淡紅の幽霊のように、尖峰を染めだし氷塔をわたり……それも間もなく一瞬の夢のように消えてしまう。そういう時、折竹の胸にはザチのことが泛《うか》んでくる。地底の女王、ムスカットでの別れのときの涙。いまは彼も、懐かしくさえなっている。妨害するというが、そんな様子もない。彼女はいま、なにを思っているのだろう。
 翌日、ヒルト博士らはついに去ってしまった。※[#「釐」の「里」を「牛」にしたもの、第3水準1−87−72]牛《ヤク》をつらねたながい行列を、折竹らは大岸壁のうえからながめている。季節風《モンスーン》前によくあるクッキリと晴れた日で、氷河の空洞のほんのりとした水色や森のように林立する氷の塔のくぼみが……美麗な緑色を灯したところは灯籠《とうろう》のように美しい。それも絶えず欠け、しきりなく打衝《ぶつか》りあい……氷河としたら激流にひとしい不思議さで、人よ、渡るなかれと示しているのだ。
 オフシェンコは、真面目そうな、寡黙《かもく》な男だ。しかし、その日はめずらしく口数が多く、折竹になにかと話しかけてくる。
「その、ザチという婦人のことは、じつにいいですね。大盲谷にさえ入れれば、お遇いになれるでしょう」
「サア、『大地軸孔』の近傍くらいじゃ、どうかしら……。広いよ、とにかく『大盲谷』は両大陸にまたがっている。それも今までは、伝説にすぎなかったんだ」
「楽しみですね。しかし、僕のはただ任務だけですから」
「じゃ君は、何処までも行くのか」
「そうですとも。国から与えられたものを、疑うようなことはしません」
 セルカークの、英人らしい徹底的個人主義と、オフシェンコとはじつにいい対照だ。ところが、その数日後に天候が崩《くず》れはじめた。雷が多くなって暗澹《あんたん》たる積雲が、ひゅうひゅう上層風《プリマ》をはらみながら、この渓谷をとざしてくる。雨ちかし、温霧谷《キャム》はその名のとおり大釜がたぎるように、濃霧に充ち、一寸の展望もない。
「この氷河の氷には、石灰分が多い。だから、猛雨があれば氷塔に浸みこんで、あの邪魔ものを、ボロボロにしちまうと思うよ。つまり、氷の石灰分が水に溶けるんだから、あの頑固なやつが軽石みたいになっちまうんだ。で、それが流れるから、平らになる。そこを、僕らが渡ろうという魂胆《こんたん》だ」
 そういう、折竹の推測がついに適中した。すごい雨のあった翌朝、一掃された氷塔をみて、三人はわっと歓呼の声をあげたのだ。濃霧《ガス》の暗黒の底から盛りあがる氷の咆哮《ほうこう》を聴きながら、温霧谷《キャム》の化物氷河を渡ったのである。しかしそこで、空中索道をつくるのに一日ほど費やし、それまで黒い骨とばかりみえていた「大地軸孔」の口元へ、立ったのが翌朝のこと。
 いよいよ、此処――三人は感極まったような面持だ。のぞくと、まっ黒な中からひやりとした風がのぼってくる。地底の国、アジア、アフリカ両大陸にまたがる想像界の大盲谷が、いま三人によって白日下に
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