く経つうちに半信半疑の色が、セルカークの顔を覆うてきたのだ。
「しかし、それは実際問題ではありませんね。ただ奇想であり、頭脳の遊戯であり……。お話だけはひじょうに面白いですが」
「では、イランの大塩沙漠《ダシュト・イ・カヴィル》を、どうお考えになる」
 と折竹が突き進むようにいった。
「あすこの、踏みいるものを焼く、おそろしい熱気は。[#「。」は底本では「、」]万物焼尽さずんば止まない、見えない魔焔は?」
“Dasht−I−Kavir《ダシュト・イ・カヴィル》”――そのおそろしい塩の沙漠はイラン国の首府、テヘランの東方二百マイルのところにある。これは、マルコ・ポーロ時代からひじょうに名が高く、すべてを焼きつくす恐怖的高熱度。砂は焼け塩は燃え、人畜たちまちにして白骨となるという、嘘も隠しもない世界の大驚異。ではその、見えない魔焔がどうしたというのか。折竹は言葉を次いで、
「つまり、僕の私見をいいますとね。あれは、地下の油脈から洩れる天然ガスだと思うのです。それが、塩沙の輻射熱でパッと燃えあがったやつが、ふわふわ浮遊して歩くのでしょう。ねえ、あの見えない焔はガソリンのお化――。高オクタン価八〇くらいの、おそらく航空用燃料《ギャス》としたら空前のやつが、あの地下には無尽蔵にあるのです」
 見えない魔焔の正体が各国ともあせっている、高オクタン価の良質油とは。が、折竹の粟粒のような汗。ここが、助かるか助からないかの瀬戸際という意気が、目にも顔にも、燃えるように漲《みなぎ》っている。案の定、セルカークは恍《うっと》りとした声で、
「航空用良質油《ギャス》」
 とたった一言、それを、折竹が追っかけるように、
「そこで、あの沙漠に噴出孔があるか、ないか。たぶん、地軸までもというような、裂け目があるだろう。多量の天然ガスを絶えず噴きだしている、地底までの穴がきっとあるにちがいない。しかも、それが大盲谷へ達している。と、僕はこう睨《にら》んでいるのです。ねえ、地下からの採油も乙なもんですぜ」
「航空用良質油《ギャス》」
 とセルカークがふたたび呻いた。折竹がならべるでたらめもさすが彼だけに整然たるもの。それが駆りたてる夢幻黄金境。いまやセルカークは大欲にうめいている。
「儂もむかしは、汲出機《ギロウ・ウァーク》[#「汲出機」は底本では「汲山機」]をもって、掘りあるいたもんでした。そして、良い油井《ウエル》に出逢ったのが、三十のときだった。ところがね、遮水管《ウエーク・ストリング》の抜き出し処置がわるく、火花をおこして焼けてしまったのですよ。ねえ、若いころは、誰にも夢がある。それが、五十になった今、蘇《よみがえ》ってくるなんて」
 と、だんだんセルカークは恐ろしげな顔になってゆく。しめた、と、折竹がほくそ笑むところへ、
「じゃ、なんでしょう。『大地軸孔』の怪焔も、おなじ意味合いのもんで」
「そうです。あれも、『大盲谷』中の一つの覗き穴です。しかし、大盲谷をうずめる全部の油量は? セルカークさん、測れますかね」
 と、唆《そそ》るようにセルカークの顔をみる、折竹も相当の役者ではないか。俺を放て……そして、大塩沙漠《ダシュト・イ・カヴィル》へやり、覗き穴を探させろ……そうすりゃ、セルカークは億万長者になれる。いや、億どころか、百兆、千兆。いずれは、英蘭銀行《バンク》がお前の紙幣《さつ》で埋まるだろう……ここだ、一生の運を掴《つか》むか掴まないか※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
 するとその時、おなじ思いはセルカークにも、こいつを、釈放したら、どんな事になる※[#疑問符感嘆符、1−8−77] うまくいい当てて覗き穴を発見し、俺を地下採油の超富豪にしてくれるか。まったく、あの沙漠だけは「英波石油《アングロ・ペルシャン》」も捨てている。そうだ、失敗《しくじ》りゃ、焼かれて死ぬ。馬鹿をみるのは、此奴だけの話だ。
 やがて、二人のあいだに盟約が成りたった。しかし、まだ折竹に完全な自由はない。
「あんたは、当分儂のそばを、離れんでもらいたい。明後日、わしはムスカットへゆく。例の、オーマン王子ご新婚でしてな。むろん、あんたへもご参列を願うが……。マア、誰しも珍客と思うじゃろう」
 それから、折竹は部屋を宛てがわれたが、その夜は眠れぬ一夜であった。月のない砂上は、ぼうっとした星明り。だが、彼はやっと助かったと、じつに躍るような気持。そのうち、彼が出方出まかせに述べたてた嘘が、どうやら真実らしく思われてきた。もともとこれは、彼の想像として腹にあったこと。ただ、大塩沙漠《ダシュト・イ・カヴィル》のあの熱気だけは、急場の凌《しの》ぎに絞りだしたのではあるが……。
 その、たんなる想像が本物になる。少くともなりそうだ、と考えた。すると、一度は死ぬんだったという捨身な気持が、彼に日本人らしい犠牲の念を呼び起してきた。
(大塩沙漠へゆくことは、けっして無意義ではない。もしも覗き穴があって「大盲谷」に達していれば、俺は「英波石油」の油層の下へゆけるのだ。またもし、大盲谷の広さが真実とするならば、ソ連コーカサスへもメソポタミア油田下へも、なんとか手段を尽せばゆけないものでもない。
 そうだ。故国一朝有事の際の、破天荒な電撃――。一隻の潜水艦、十人の挺身隊。もし覗き穴さえわかれば、それで事足りるではないか。油層下からの処置で、油田は渇れるだろう。また、十人の犠牲で全油田爆破ともゆける。その下地を、俺はいま作りあげようとするのだ。で俺が、もしも大塩沙漠から生還した場合、俺は国家への協力をほこれる。また、万が一の際は知られない犠牲として、俺は個人としての最高の死を遂げることになる。犠牲――。それも、知られないほど、美しい)
 夜が明けかかり、砂丘の万波にようやく影が刻まれてゆく。空には、獅子《しし》座が頭をさげて西の空へ下りかけ、やがて東からのぼる東亜の太陽の前駆、白鳥、ケフェウス、カシオペアが薄明のなかをのぼってくる。それを……折竹はさし招くような意気だった。
 ところが、その二日後の夜。オーマンの都ムスカットで行われた王子ご新婚式に不思議な出来事が起ったのだ。
 稜※[#「山+曾」、第4水準2−8−63]《りょうそう》たる岩山のしたの町ムスカットのその夜は、イラン、エジプトご新婚の賓客《ひんきゃく》をそっくりひき受け、ヨーロッパ社交界に鳴る綺《きらび》やかな連中が、ふうふう暑熱にうだりながらオーマン湾を渡ってきたのだ。まず客人《まろうど》は、英皇太后メアリー陛下の御弟エースローン公、ドイツはモスクワ駐※[#「答+りっとう」、第4水準2−3−29]《ちゅうさつ》大使シュレンバーグ伯、またエジプトの女王ナズリ陛下、イタリアは皇甥スポレート侯爵。こうした方々が、白壁の小家が櫛比《しっぴ》するこの狭衝の町、また、イラクのバグダットと肩をならべる世界一暑い首府の――ムスカットを見ちがえるように飾ってしまったのである。
 その海岸の広場にある王宮といっても、簡易な三層の漆喰建《しっくいだて》であるが、ともあれ、オーマンを統《す》べる大元首のいますところ。花火、水晶の燭架《キャンドル》眼眩《まばゆ》いなかに、今宵の客人がいと静かに参上する。
「もう、おいではこれだけであろう」
「ふむ、いかさますみ申したようであるが」
 裸足《はだし》の、二人の式部官が次第書とつき合せてみると、もうお客はこれで終っている。きょうの御儀に日本綿布の外衣《バーナス》をそろえた、儀仗兵も休ませなくてはならない。さあ、腹も減ったし、羊も焼けている。胡椒飯《ピラフ》を腹さんざん詰めこもうではないか――となった時。
 とつぜん、昇降階のしたでザザザザという太鼓の音。お客だ、と一同は慌てふためいて列をそろえた。とそこへ、たくみにガウンを捌いてくる※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]《ろう》たけた一人の婦人。みれば、頭上には王冠を戴いている。
「失礼でございますが」
 と、式部官の一人が恭々《うやうや》しく訊ねたのである。
「次第書にございませんので、お言葉を願います。いずれの国の、どなた様でいられましょう」
「キンメリアの女王」
「へっ」
「このオーマンは、なんという無礼な国である」
 とその婦人が凛然《りんぜん》と言い出した。
「わたくしは、前もって儀式書を頂いている。それには、使節の随員は宮廷よりの馬車に分乗し、使節の馬車に前行すべし――とありますが、随員のはおろか、わたくしのも参りませぬ。当国は格式を重んじ典礼を尊ぶ点に於いて、回教国一と聴いておりますが」
「恐れいります」
 と、式部官が首をさげた時その婦人の姿は、昇降階に続く「騎士の間」に消えていたのである。その場には、侍従長やら将軍やらがいたが、凛とあたりを払うその婦人の威厳には、誰も止めるものがなかったのだ。
 キンメリア――それは地図上にない国である。

   生きている氷河

 折竹は、舞踏にも加わらず宮苑のなかを歩いていた。スミルナの無花果《いちじく》、ボスラーの棗椰子《なつめやし》、エスコールの葡萄――。近東の名菓がたわわに実っているところは、魔宮か、魅惑の園のよう。そこへ、日時計のついた噴泉が虹をあげ、風は樹々をうごかし、花弁は楽の音にゆすられる。彼は酒気をさまそうと、ぽつねんと亭《ちん》にいたのだ。
(セルカークの奴、この辺じゃなかなかの羽振りじゃないか。マア情報省の機関区長どころだろうが……、どうして領事くらいは敵わんような勢力がある)
 そこへ、植込の陰からぷうんと女の匂いがした。棕櫚の花粉のついた裳裾がみえたとき、彼の横手からすうっと寄り添ってきた、女がいる。
「お久しう。折竹さん、ほんとうに暫くでございました」
 いわれて、婦人をひょいと見たが、彼には全然未知の女だ。額のひろい、思索深げな顔。齢は四十に近いだろうが、※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]々《ろうろう》として美しい。はて、どうもこれは純粋の白人ではないな。と、思ったがなんの記憶もない。
「失礼ですが、奥さまとはどこでお目にかかりましたでしょうか」
「お忘れ?」
 とその婦人は婉然とわらって、
「ロンドンでお目にかかったではございませんの」
「サア」
「あたくし、ザチでございますの」
 晦冥国《キンメリア》の女王、さっき、招かれざる賓客として乗り込んだのが、ザチだった。折竹はいよいよ捕まったかと思うよりも、夢のような気持で、
「僕がここへ来たことが、どうして分ったのです」
「そりゃね、あたくしにも知る方法がありますわ。あなたは、シャルジャーで旅客機をお下りになり、それからセルカークと此処へいらっしたのでしょう」
「ふうむ。よく」
 と唸った陰にはやはりこいつはと、折竹は警戒を感じたのである。こういう顔は、よくコーカサス人や韃靼《だったん》人の混血児にある。それが、晦冥国の女王なんて神話めいたことで、俺を釣ろうなどとは、大それた奴だ。きっと、ソ連の連中のなかじゃ、いい姐御だろう――と思うと気も軽々となり、
「いつぞや、僕の『大地軸孔』ゆきにご勧告がありましたね」
「ええ、ぜひそうお願いしたいと、思うのです。覗き穴のしたにわずか固っている、未開の可哀想な連中です。別に、この世に引き出したところで、見世物にもなりません。お捨て置きになれば、有難く思いますわ」
「しかし、あなたはフランス語をお喋りになりますね。そこは大体、地上と交通のない地底の国のはず。その点がどうも解《げ》せませんよ」
 とうとう、ザチはそれには答えなかった。悲しそうな目をして、じっと折竹をみている。駄目っ、駄目っと……念を押すようなそれでもないような、なにか胸に迫った真実のものを現わして、
「でも、お目にかかれて嬉しいと思いますわ。人間って――十年、二十年、交際《つきあ》っていても何でもない方もありますし……たった一目でも、生涯忘れられない方もありますわ。お別れいたします」
 と立ちあがったが、またふり向いて、
「こんな齢になって泣くなんて、可笑しいですわね
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