あの、折竹がどうしたというのだろう。猪突《ちょとつ》六分、計画四分という、彼の信条はどこへ行ってしまったのか。と、過去の彼にくらべればあまりな変り方に、まったく、真実「大地軸孔」というところは、彼がいうように征服不可能なのかと、誰しもそう信じてしまったのである。
 しかし、ソ連、インドにはさまれた「大地軸孔」の位置。新疆《しんきょう》、パミールからかけて南下しようとするソ連勢力と、必死にインドをまもろうとするイギリスの防衛策。ちょうどその間へ自然の障壁のように「大地軸孔」をふくむアフガニスタン領が伸びている。してみると、いま独逸航空会社《ルフト・ハンザ》が純学術的探検の名目で、この秘境を暴露しようというのが、黙過されるだろうか。ソ連には、ここが明かになれば対印新攻撃路。おそらく天与の好機と、期待しているにちがいない。がそれに反してイギリス側には、この秘境暴露がひじょうな痛手になるのだ。
 インドへの道――その間に横たわる大秘密境「大地軸孔《カラ・ジルナガン》」。そうだ、きっと英官辺からの圧迫があったのだろう――と、折竹翻意の理由をこう睨みたい気持が、誰の胸にも疼《うず》いていたのであるが……。国際紛争裡におどる快男子[#「快男子」は底本では「怪男子」]折竹の姿は、まだ彼も言わず、作者も秘、秘である。ではこの、大地軸孔とはいかなる魔所であろうか。
 北にパミール高原、西南にはヒンズークシ、南東にはカラコルム。おのおの、二万フィート級以上が立ちならぶ大連嶺が落ち合うところが、いわゆる「パミールの管」のアフガニスタン領である。ではここが、なぜ永いあいだ未踏のままであったかというに、それは、「大地軸孔」をかこむ“Kyam《キャム》”の隘路に、世界にただ一つの速流氷河があるからだ。温霧谷《キャム》の、魔境の守り、速流氷河《ギースバッハ・グレッチェル》。
 グリーンランドの北端にあるアカデミー氷河群に、一日四十メートルをながれる韋駄天《いだてん》氷河があるけれど、これはおそらく、その速度の十倍以上であろう。囂々《ごうごう》とひびいて摩擦音を轟かせ、地獄の大釜がたぎるような氷擦の熱霧をあげながら、日速四百十九メートルといわれる化物氷河の谷。また、温霧谷という名のわけも、これでお分りだろうと思われる。
「つまりだね」
 と、折竹が技術的な説明をはじめる。
「温霧谷《キャム》の、速流氷河をどうして登るかという点で、僕はハタと詰ったんだ。普通の氷河なら、ザッと十マイルばかりを六十年もかかる。ところが、温霧谷の先生ときたら、化物以上だからね。猛速、強震動を発し、登行者を苦しめる。突然、数丈もある氷塔が頭上に落ちてくるだろう。また、なにもない足下に千仭《せんじん》の氷罅《クレヴァス》が空くだろう。なんていうのがザラだろうという訳も、すべてあの氷河の猛速の禍いだ。それに、氷擦のはげしさで、濃稠《のうちょう》な蒸気が湧く。それが原因となる氷河疲労《グレーシャル・ファチーグ》に、マア僕らは二時間とは堪えられまい」
「驚いた。あなたにも似ない、大変な弱音ですね」
 と片隅のほうで嗤《わら》うような声がすると、
「そうとも、化物氷河と闘えるもんじゃない」
 と、折竹が即座にやり返す。そしてその、温霧谷《キャム》の速流氷河を十五マイルばかり登ったあたりに、大地軸孔がおそろしい口をひらいている。
 作者はいま、便宜上「大地軸孔」などといっているが、その“Kara Jilnagang《カラ・ジルナガン》”というのは中央アジア一帯の通称で、「黒い骨」というのが正確な意味になる。で今、もしもその辺りを絶好の月夜にながめたとしたら……。雪嶺銀渓、藍の影絵をつらねているワカン隘路《パス》のかなた、銀蛇とうねくる温霧谷氷河の一部が、ときどき翳《かげ》るのはおそろしい雪崩《なだれ》か。いや、その中腹にくっきりと黒く、一本の肋骨のようなものが見えるだろう。それが地獄の劫火《ごうか》ほの見える底なし谷といわれている、黒い骨の「大地軸孔《カラ・ジルナガン》」。
 そこは、たぶんめずらしい“Niche rift《ニーチ・リフト》”ではないのか。つまり、壺形をした渓という意味で、上部は、子安貝に似た裂罅《クレヴァス》状の開口。しかし、内部は広くじつに深く、さながら地軸までもという暗黒の谷がこの「大地軸孔」の想像図になっている。ではここが、なぜ世界の視聴をいっせいに集めているのか。というのは、怪光があるからである。
 ときどき、地底の住民の不可解な合図のように、火箭《かせん》のような光がスイスイと立ちのぼってくる。時には、極光《オーロラ》のように開口いっぱいに噴出し、はじめは淡紅《ピンク》、やがて青紫色に終るこの世ならぬ諧調が、キラキラ氷河をわたる大絶景を呈するのだ。しかし、このパミールに
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