の生活をみていると、しみじみその言葉が胸うつように響いてくるのだ。いまイギリス人は、わずかを働いて多くをとっている――その、余裕|綽々《しゃくしゃく》ぶりはなにに由来する※[#疑問符感嘆符、1−8−77] インド、濠州《オーストラリア》、南|阿《アフリカ》、カナダ――みな一、二世紀まえの探検の成果だ。
 するとじぶんに、民族の血をとおしてした探検があったろうか。時代がちがうとはいえ最小の効果でも、国にたむける意味の探検があったろうか。文化の貢献者という美名にあこがれて、ただそれだけのために働いていたのではないか。と思うと、泣きたいような気持になる。これまで彼がしたすべての事が、いまは些細な塵《ちり》のようにしか見えなくなったのだ。もう、大地軸孔へ行く気力などはない。
 まして、独逸航空会社《ルフト・ハンザ》は純文化的意味だというけれど、この「大地軸孔」探検はそんなものではないらしい。近東空路を、はるばるアフガニスタンの首府カブールまで伸ばしてきた、独逸航空会社には一層の野心があるのだろう。英ソの緩衝《かんしょう》地帯である「大地軸孔」一帯を精査して、ナチスの楔《くさび》を南新疆にうちこもうというのではないか。また一方、この探検が成功すれば利益を得るものに、対印新攻撃路をにぎれるソ連がある。いずれにしろ、これは他国を益するにすぎない。ご免だ。くだらん英雄になってお先棒に使われるよりは、暫く故国へ帰って、ゆっくりと休もう。と、彼はついに参加を思い止まったのである。
 窓をあけた。近ごろは、こうして窓をあけ往来をながめることが、彼には習慣のようになっている。ザチ――。あの「大地軸孔」の女と称する神秘的な婦人が、もしや彼に会おうとして、うろついていやしないだろうか。会いたくはない。が、どんな婦人だか、一目だけみたい。いまは、彼の脳裡からとり去ることが出来なくなったほど、ザチのことは強烈なものになっている。
(事実、「大地軸孔」のしたには、住民がいるのだろうか。いや、あの女はまやかし者にちがいない。じぶんに、「大地軸孔」攻撃の興味を湧かさせようと、あるいはソ連からでも仕立てられて来たのではないか。G・P・U《リビヤンカ》女――。マア、底を洗えば、そんなところだろうが)
 土を守る、探検を妨害する――なんぞといいながら逆効果をねらい、かえって「大地軸孔」へじぶんを惹きよせようとする。きっと、ザチはソ連の女だろう、と、折竹はそういうように考えていた。しかし、どこにもザチらしい婦人はいない。ただ、テムズを越えてみえるバタッシー公園の新芽の色が、四月はじめの狭霧にけむり、縹渺《ひょうびょう》として美しい。
 翌朝は、ロンドンの郊外クロイドンの飛行場。アームストロング・ウィットウァース機の車輪一度地をはなれれば、鵬翼欧亜の空を駆り日本へと近付いてゆく。が、まず彼は事務所にいって、同乗の旅客表《ブラッキング・シート》をしらべたのである。しかし、ザチの名はなかったのだ。
「たいていは、アラビアオーマン国の王子ご新婚式に出むかれる、新聞社の方々や外交関係でございます」と、折竹に旅客掛りが説明をする。
「ご婦人※[#疑問符感嘆符、1−8−77] それはお一人ですが、ハッキング卿夫人で。いいえ、外国の方は貴方さまばかりで……」
 やがて、機はふんわりと空中に浮び、朝の湿気のもとに広茫とひろがっているクロイドンは、はや見えずになってしまった。左様なら、また、信念を充すものがくるまで、探検よさらば。と、翌夜捲きこまれる奇怪な運命があるのも知らず、彼は胸をくもらせ、無限の感慨にひたっていたのだ。やがてパリ、イタリアのブリンディッシ、アテネ、アレキサンドリア。
 翌日は、バグダット、バスラを過ぎアラビヤ半島の突角にある“Sharjah《シャルジャー》”へ着いたのが深更の二時。荒い城壁にかこまれた、沙漠中の空港《エーヤ・ポート》。すると、機体を下りたった彼のそばへ、歩み寄ってきた男がいる。まず、その男は慇懃《いんぎん》な礼をして、
「ポルトガルの御使節、エスピノーザ閣下にいらせられましょう」
「へえっ」
 と彼はびっくりして、叫んだ。
「日本人だ。いくら、日本と葡萄牙人《ポルチュゲー》が似ているからって、間違うにもほどがある。まして、俺は閣下じゃない」
「ご冗談を」
 とその男は引きさがる気配がない。
「オーマンの、華の御儀へご参加になるエスピノーザ閣下であることは、手前よく存じております。また、お気さくの方で下々のことまで、よくおわきまえでいらっしゃる事も……」
「ハッハッハッハ、上にも下にも、下情しかしらん男だよ」
 となんだか折竹も面白くなってきたところへ、とつぜん彼の咽喉がぐびっと鳴り、顔の表情が凍てついたようになってしまった。銃口が、彼の下腹部にぴたりと付
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