に上陸したドイツ隊の記録だ。それを、折竹がパラパラっとめくり、太い腕とともにぐいと突きだしたページには、
翌五月十六日、依然天候は険悪、吹雪はますます激しい。天幕《テント》内の温度零下五十二度。嚢内からはく呼吸《いき》は毛皮に凍結し、天幕《テント》のなかは一尺ばかりの雪山だ。すると突然、エスキモーの“E−Tooka−Shoo《エ・ツーカ・シュー》”が死んだような状態になった。脈は細く、ほとんど聴きとれない。体温は三十二度。まさに死温。
「死んだよ」と、私がもう一人のエスキモーの“AL−Ning−Wa《アル・ニン・ワ》”にふり向いて、
「だが、どうして急にこんな状態になったか、わからん。さっきまで、ピンシャンしてた奴が、急にこうなっちまった」
と、その時だ。いきなり、死んだはずのエ・ツーカ・シューが、むっくと起きあがった。蘇えったか、と、支えようとする私をアル・ニン・ワは押しとどめ、
「死んでいるだよ。動いているだが、エ・ツーカ・シューは死んでいるだ」という。私が、なにを言うかと屹《き》ッとみる目差《まなざ》しを、その老エスキモーは受けつけぬように静かに、
「論より証拠というだて、ちょっと手を握ってみなせえ、脈はあるだかね。おいら、生きてる人間みてえに、暖かになったかね」
なるほど先刻《さっき》と、彼のいうとおり少しも変っていない。死体がうごく──と、呆気《あっけ》にとられた私にアル・ニン・ワは言い続ける。
「そっとして……。旦那は、何もしねえほうが、いいだよ。エ・ツーカ・シューは、これから『|冥路の国《セル・ミク・シュア》』へ召されるところだから。死骸になってから行かされるなんて、おいらの種族はなんて手間が掛るだべえ」
とみる間に、エ・ツーカ・シューがのっしのっしと歩きはじめた。まるで、ゼンマイ人形のような機械的な足取り。やがて天幕《テント》をまくったとき吹きこむ粉雪のために、彼の姿は瞬間にみえなくなった。それなりだ。橇犬の声がやがて外でした。岩がちぎってくるような吹雪の合間合間に、しだいに遠ざかってゆく鈴の音、犬の声。
行ってしまった。極北の神秘「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」は実在せり! エ・ツーカ・シューは死体のまま橇を駆り、晦冥《かいめい》の吹雪をつき氷の涯《はて》へと呑まれたのだ。
[#図1、地図「グリーンランドとセル・ミク・シュア」]
なんたる怪か──と、あきれる私の耳元へ折竹の声。それが、また意味はちがうが打《ぶ》ん殴《なぐ》るような驚き[#「驚き」は底本では「響き」]を……。
「どうだい、僕が魔境中の魔境といったのも、ハッタリじゃあるまい。それに、この探検にはひじょうな意義がある。じつは、国際法の先占《せんせん》問題にも触れている」
と、私に固唾《かたず》をのましたその「先占」とは。例をわが国にとれば、南極問題あり。かの大和雪原領有を主張する、白瀬中尉の熱血。また近くは、フランスと争った新南群島の先占。いずれも事新しいだけに賢明な皆さんのまえで、この言葉の説明の必要はあるまいと思われる。つまりこれは、無主の地へいちばん先に踏み入ったものが、その本国政府に言って先占宣言をさせる。今後この地は自国の領土である、異議あるものは申し出い──というのが「先占」。
では今、国際紛争を仄《ほの》めかすような先占問題がからむという、極北のその地とは一体どこのことだろう※[#疑問符感嘆符、1−8−77] 私は、深くも聴かずひとり合点をして、
「なるほど、それが『|冥路の国《セル・ミク・シュア》』探検の副産物というわけだね。じゃ、どこだ? その、新発見の北極の島ってえやつは」と言うと、折竹はいけぞんざいに手をふって、違う、と嘲けるように言う。
「島じゃない。その無主の地というのは、グリーンランドの内部《なか》だ」
驚いた。現実を無視するにもこれほど痛快なものに、私はまだ出会ったことがない。
全島、ヨーク岬をのぞくほかデンマーク領のグリーンランド──。よしんば内部《なか》が、「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」をふくむ広茫《こうぼう》の未踏地とはいえ、沿岸を占めれば自然奥地も領地となる──国際法には奥地主義の法則がある。それでは、先占|云々《うんぬん》の余地は完全にないではないか。無主の地はたとえ一坪たりと、いま北極圏の大島グリーンランドにはないのだ。それにもかかわらず……。
と、いうところが「死体駆る橇《そり》」とともに、「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」探検の大眼目になっている。しかしこれは、暫《しばら》く興味上保留することにして、では、そこを先占しようとしたのは、いずれの国であろう。訊くと、折竹は紅潮さえもうかべ、
「どこって※[#疑問符感嘆符、1−8−77] それが他の国ならいう必要のないこと
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