服という以外にも、不義の徒に対する烈々たる敵愾心《てきがいしん》。まず、彼らの策動を空に終らせることが、この際クルトへのなによりの手向《たむ》けだろう。と、いよいよ「冥路の国」探検ということになった。
 がその間、彼はおのぶサンの来訪を頻繁にうけていた。
「ちょいと、あたし……また来たわよ」といった具合で、まい日のようにやって来る。折竹も、三度に一度はうるさそうな顔をするが、こういう時も、
「お邪魔はしないわよ。あたしに関《かま》わず、お仕事をやって」と言う。そして何時までも、折竹の向う側にかけていて、雑誌などを見ながらもちょいちょいと彼をみる、その目付きは唯事《ただごと》ではない。折竹も、このごろでは慄《ぞ》っとなっている。
 また来たわよ、ご迷惑ねえ──と、言われるときのあの気持といったら、悪女、醜女《しこめ》も典型的なおのぶサン。三十六貫の深情かと思うと、胃のなかのものがゲエッと出てくるような感じ。
 それに、ここになお一層悪いことは、今度おのぶサンも探検隊について「冥路の国」へゆくということになっている。それは、鯨狼《アー・ペラー》の給仕者という役。ではなぜ、鯨狼が探検に必要なのだろう※[#疑問符感嘆符、1−8−77] というのは、棲息地の記憶だ。これは、あらゆる海獣を通じての顕著な習性で、どこで鯨狼が捕えられたかということを、観察しつつ知ろうというのだ。
 してみると、おのぶサンとは当分離れられぬわけ。それを思うと、ゲンナリしてしまう。
 だが、折竹は神様ではない。もし神様ならばこう頻繁におのぶサンがくる理由《わけ》を覚らなければならない。なにか、おのぶサンには惚れた腫れた以外に、折竹に言いたいことがあるらしい。で、これは、ニューヨークを去る出発の前夜のこと。
 その晩、昨日は来ないからやって来るなと思っていると、案の定、扉を叩く音がする。彼は、それを聞くとぞくっとなって来て、寝室に入りそっと息を凝らしていた。すると、
「折竹さん、いないんですの」と声がする。帰るだろう、黙っていりゃ行ってしまうだろう──と、思うがなかなか去る気配がない。そのうち、扉のしたからスウッと白いものが……。封筒らしい。さては、奴め打ち開ける気持だな……と、思ったとき向うの気が変ったらしく、今度は、その封筒がスルスルっと引っ込められてゆく。
 それに、折竹の全運命が掛っていようとは、神ならぬ身の知るよしもなかったのだ。
 探検隊は、古くからある捕鯨港のサレムで勢揃いをし、五月十九日の朝乗船「発見《ディスカヴァリー》」号には、前檣《ぜんしょう》たかく出航旗《ブルー・ピーター》がひるがえる。いよいよ、極北の神秘「冥路の国」へ。
 ニュー・ファウンドランドを過ぎラブラドルール沖にかかると、もう水の色もちがってくる。それまでの藍色がだんだんに褪《あ》せ、一日増しに伸びてゆく昼の長さとは正反対に、温度はじりじりと下ってゆく。すると、グリーンランドの西海岸をみるデヴィス海峡にかかった時、「発見《ディスカヴァリー》」号の全員がすくみ上るようなことが起った。
 水平線が、とつぜんムクムクと起伏をはじめたかと思うと、みるみる、無数の流氷が「発見」号をおそってくる。船は、あちこちに転針してやっと遁《のが》れたが、じつに前門の虎去れば後門の狼のたとえか……極鯨吹きあげる潮柱のむこうに、ポツリと帆影のようなものを認めたのだ。まもなく、水夫長《ボースン》が案じ顔にやってきて、
「どうもね、あの横帆船《シップ》にゃ見覚えがあるんですがね」
「とは、どういう事だね」
「あっしゃ、あれがルチアノ一味の『フラム号』じゃねえかと思います。全部、新品の帆なんてえ船は、たんとねえんだから……」
 そこで、補助機関が焚かれ、船脚が加わった。全帆、はり裂けんばかりに帆桁《ヤード》を鳴らし、躍りあがる潮煙は迷濛な海霧《ガス》ばかり。そうして、二、三海里近付いたとき双眼鏡をはずした水夫長が、
「やっぱり」と、言葉すくなに折竹をみる……その顔には言外の恐怖があった。
 まるで、送り狼のような「フラム号」の出現。それに、ルチアノやフローが乗っているかどうかは知らないが……とにかく、この二探検船の前途になに事かが起るということは、もうここで贅言《ぜいげん》を費やすまでもないだろう。
 自然への反抗とともに、ルチアノ一派との闘い、氷原の道には、ますます難苦が想像されてくる。
 そこからは、かつての北極踏破者ピアリーが名付けたという、中部浮氷群《ミドル・アイス》の広漠たる塊氷のなか。やがて、“Kangek《カングック》”岬を過ぎ、“Upernavik《ウペルナビック》”島を右に見て、いよいよ拠点となるホルムス島付近の「|悪魔の拇指《ディヴルス・サム》」という一峡湾に上陸した。仮定「|冥路の国《セル・
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