ミク・シュア》」の位置はこの地点からみると、真東に二百五十マイルほどのあたりに当る。
この峡湾には、まるで人間への見せしめのような、破船が一つ横たわっている。ジョン・フランクリン卿の探検船「恐怖《ザ・テラー》」号の残骸が、朽ちくさった果ての肋骨のような姿をみせ、百年ばかりのあいだ海鳥の巣になっている。いずれは「冥路の国」を衝くものはこうなってしまうのだと、はや上陸早々魔境の威嚇に、一同は出会ったような気になった。まったく、そこはなんという陰気なところか。
海霧《ガス》たち罩《こ》める、海面を飛びかよう[#「飛びかよう」は底本では「飛びかうよう」]海鴎《シーガル》や|アビ鳥《ルーシ》。プランクトンの豊富な錫色の海をゆく、砕氷や氷山の涯しない行列。なんと、幽冥界の荒涼たるよ──とさけんだ、バイロンのあの言葉が思いだされてくる。しかしそこで、攻撃準備は着々と進められ、北部 Etah《エター》 地方のエスキモー人があつめられてきた。そうなると、問題なのはフラム号の行方。
「いるぞ。暫く見えないから断念《あきら》めたと思ったら、『フラム』号のやつ“Kuk《クク》”島にいやがる。どのみち、チャンバラが始まるなら、早いほうがいいな」
「フラム」号の、決着を見届けるため沿岸をさぐっていた一隊が、帰ってくればこんな話だった。クク島とは、ここから約二十マイルばかりのところ。さだめし、向うも上陸隊がでて、この隊と競うだろう。風雲も死闘もそのうえの事と、いよいよ二十台の犬橇《いぬぞり》が氷原を走りはじめたのである。
鯨狼《アー・ペラー》の檻、その餌となる氷漬の魚の箱。ダブダブ揺ぐようなおのぶサンの肥躯《ひく》も、今はエスキモーさながらに毛皮にくるまっている。
氷原と吹雪、氷河と峻嶮《しゅんけん》の登攀《とうはん》。奈翁のアルプス越えもかくやと思われるような、荷を吊りあげ、またおのぶサンを引きあげる一本ロープの曲芸。そのうち、落伍者が続出する有様。残ったのは、かなり名の知れた氷河研究者のザンベック、それに、ケプナラが気丈にも残っているが、もう、白人はこの二人だけにすぎない。しかも、寒気はますます厳しく、零下四十五度から六十度辺を上下している。
とこれは、七月末ごろのことだった。もう「|悪魔の拇指《ディヴルス・サム》」から百マイルも来たと思うあたりの、一|隘路《あいろ》のなかで大吹雪におそわれた。
天地晦冥となり、砂を吹きつけるよう。くるくる中天に舞う濃淡の波に、前方の連嶺が見え隠れしていたのも、暫し。やがて、一面が幕のようになり、咽喉《のど》の奥までじいんと知覚が失せてくる。みると、橇犬どもは悄然《しょうぜん》と身をすくめ、寒さに嗅覚がにぶったのか、進もうとはしない。刃の風とまっ暗な雪のなかで、一同は立往生してしまった。
と、やがて霽《は》れ間が見えてきた。すると、ケプナラがあっと叫んで、白みかけてきた前方を指差すのである。
「アッ、なんだありゃ。ルチアノ一味の襲撃じゃないか」
みると、そこを横切ってゆく数台の橇《そり》がみえる。来た、来た。乾魚や海象の肉をつめた箱を小楯に、一同は銃をかまえ円形をつくったのである。と、どうした訳かそれをみた、おのぶサンがゲラゲラっと笑いだすのだ。
極光下の新日本
「冗談じゃない。ここで、この隊を殺《や》っちまったら元も子もないじゃないか。ねえ、『|冥路の国《セル・ミク・シュア》』まで橇跡に蹤《つ》いていって、そこでというなら話になるがね。だけど私や『フラム』号の連中はすこしも恐かアないよ。恐いのは……」
と言いかけたが吹きつのる風のために、惜しいかな、続くものが聴えない。しかしこれは、あとで分ったことだが、蜃気楼《しんきろう》だったのである。「冥路の国」へとゆく、一人のエスキモーの橇。それが、一つの山が数個の幻嶽をだすように、いくつもの幻景《イマージュ》となって現われた。そういう、座興のあとで吹雪が霽れると、今までいた犬が一匹もみえない。
「オヤ、どうした※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」と、思っていると彼処此処《あちこち》の雪のなかから黒い鼻先がひょくりひょくりと現われてくる。犬は、こういう酷寒の地では雪中にもぐって、眠る──と、いうことが重大な使嗾《しそう》となった。その夜、これまで解けなかった「冥路の国」の怪が、彼にやっと分ったような気がしたのだ。
「よくマア俺も、此処までやってきたものだ」
と、折竹が感じ入ったように、呟くのも道理。
まず、無名の雪嶺を名づけた、P1峰を越えたのが始め、火箭《ひや》のように、細片の降りそそぐ氷河口の危難。峰は三十六、七、氷河は無数。まったく、この三月間の艱苦《かんく》は名状し難いものだった。しかし、ここで不思議に思われることは、この極地にくるとお
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