が、なんだね」
「海豹《あざらし》と海象《ウォーラス》の混血児《あいのこ》だ。学名を“Orca Lupinum《オルカ・ルピヌム》”といって、じつに稀《まれ》に出る。その狂暴さ加減は学名の訳語のとおり、まさに『鯨狼』という名がぴたりと来るようなやつ。孤独で、南下すれば膃肭獣《おっとせい》群をあらす。滅多にでないから、標本もない。マア、僕らは、きょう千載に一遇の機会で、お目にかかれたというわけだ」
「ううむ、そんな珍物かね」と、温厚学究君子のケプナラ君は感じ入るばかり。果して、この奇獣は唯者《ただもの》ではなかった。やがて、折竹を導いて「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」へと引きよせてゆく、運命の無言の使者だったのだ。咆《ほ》えもせず、じっと瞳を据《す》えて人間を見わたしている、狡智《こうち》、残忍というか慄《ぞ》っとなるような光。これぞ、極洋の狼、孤独の海狼と──なんだか睨《にら》みかえしたくなる厭アな感じが、ふとこの数日来折竹に絡《まつ》わりついている、ある一つの異様な出来事を思いださせたのである。それは、両三度を通じておなじような意味の、次のような手紙が舞いこんできたのだ。
敢《あ》えて小生は、世界的探検家なる折竹氏に言う。この地上にもし、まだ誰も知らず一人も踏まぬ国ありとすれば、その所在を、ご貴殿にはお買い取りになりたき意志なきや。小生は、それほどのものを売らねばならぬほど、目下《もっか》困窮を極めおり候。
明日、午後三時より三時半までのあいだ、東《イースト》二十四番街のリクリェーション埠頭《パイアー》の出際、「老鴉《オールド・クロウ》」なる酒場にてお待ち申しおり候、目印しは、ジルベーのジンと書いてある貼紙《はりがみ》の下。
[#地から2字上げ]K・M生
未知の国|売物《うりもの》──じつに空前絶後ともいう奇怪なことである。まして、国というからには単純な未踏地ではあるまいが、まさか、そんなものがこの地上にあろうとは思われない。折竹はなんだか揶揄《からか》われるような気がして、ついに、二度三度と手紙がきても行かずにいた。
と、つぎに昨日のことだった。ふいに、男女二人の訪客があって、その名刺をみたときオヤッと思ったほど、じつにそれが意想外の人物だったのだ。
無疵《ラッキー》のルチアノ──いまタマニーに風を切るニューヨーク一の大親分。牝鶏《ニッキィ》フロー、彼の情婦で魔窟組合《プロスティチューション・シンジケート》の女王、千人の妓と二百の家でもって、年額千二百万ドルをあげるという、大変な女だ。そういう、暗黒街に鳴る鏘々《そうそう》たる連中が、いかなる用件があってか丁重きわまる物腰で、折竹の七十五番街の宿へやってきた。
世界的探検家対ギャングスター・ナンバー一《ワン》。まずこれは、一風雲必ずやなくてはなるまい。
「ご免なすって」と人相は悪いがりゅっとした服装の伊太《イタ》公、フローは、まだ若くガルボ的な顔だち。しかし、駆黴剤《くばいざい》の浸染《しみ》はかくし了《おお》せぬ素姓をいう……、いまこの暗黒街を統《す》べる大|顔役《ボス》二人が、折竹になに事を切りだすのだろう。
「じつは、高名な先生にお願いの筋がござんして。と、申しますのは余の儀でもござんせん。ここで、分りのいい先生にぐいと呑みこんで頂いて……」
「なにをだ」
「すべて、どこへ行くとか何をするとか──その辺のところは一切《いっさい》お訊きにならず、ただ手前の指図どおり親船に乗った気で、ちかく“Salem《サレム》”をでる『フラム号』という船にのって頂く」
「おいおい、俺をどこかの殴りこみに連れてゆくのか」
「マア、お聴きなすって」と、ルチアノはかるく抑え、
「で、その船は北へ北へとゆく。すると、そのどこかの氷のなかにだね。ぜひ先生のお力を拝借せにゃならねえものが、おいでを、じっと待ってるんですよ」
「では、そこは何処なんだね。また、僕の力を借りるとは、何をすることなんだ?」
「どうか、それだけはお訊きにならねえで。ただ、申しあげておくのは、けっして邪《やま》しいことじゃない。法律に触れるようなことでは絶対にないという……その点だけはご安心願いたいもんで」
折竹は、ただただ呆れたように瞬《しばたた》くだけ。ギャングども、大変なことを言ってきやがった。俺の力を、借りたいというからには探検であろうが、いま、年収八千万ドルといわれるルチアノの仕事なら、あるいはそれが途方もないものかも知れぬ。どこだろう、北へ北へといって氷のなかに出る※[#疑問符感嘆符、1−8−77] はてなと、思いめぐらすが、見当もつかない。ただ、匂ってくるのは黒暗々たる秘密のにおい。
「ねえ、先生、ご承知くださいましなね」
と、フローが間に耐えられないように、
「私たちだって、偶《たま》
前へ
次へ
全13ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング