いぐい呷《あお》りながら、虹のような気焔《きえん》をあげはじめる。
 「人間は、ちいさな機会《チャンス》などに目をくれていたら、大きなのを失うよ。誰にも、一生に一度はやってくる大《でつ》かいやつを、俺は捕まえようってんだ。これはね、女にだって同じことだろうと思うよ。男が、生涯に惚《ほ》れる女はたった一人しかない。ドン・ファンや、カザノヴァが女を漁《あさ》ったね。だがあれは、ひとりの永遠の女性を見付けるためだったと――俺はマアそういうふうに解釈している。つまり、俺のは最上主義なんだ」
 「それが、君の放浪哲学だね。些細な、富貴、幸福、何するものぞという……」
 「そうだ。時に、喋《しゃべ》っているうちに気が付いたがね、今夜は、“Bicho《ビッショ》”の発表の晩じゃないか」
 “Bicho《ビッショ》”というのは、ブラジル特有の動物|富籖《とみくじ》である。蟻喰い《タマンツァ》[#ルビは「蟻喰い」にかかる]の何番、山豚《ポルコ・デ・マツトオ》の何番というように、いろんな動物に分けて番号がつけられている。その、当り籖が今宵の十二時に、ラジオを通じていっせいに発表されるのだ。それから二人は、パゲタ島からにおう花風のなかで、動物富籖《ビッショ》の発表を待ちながら酒杯を重ねていった。折竹は、もう泥のように酔ってしまっている。
 「ううい、動物富籖《ビッショ》を一枚、てめえ大切候《だいじそう》に持ってやがって……。おいカムポス、俺はなんだか、可笑しくって仕様がねえ」
 「ハッハッハッハッハ、なけなしの俺が一枚看板みたいに、動物富籖をもっているのが、そんなに可笑しいか。だが、俺だって当ると思っちゃいないよ。易《うらな》いだ。未来を卜《ぼく》すには、これに限るよ」
 やがて、十二時が近付くにつれ、しいんとなってくる。おそらく、動物富籖をもたぬものは一人もあるまいと思われるほど、この富籖には驚くべき普遍性がある。やがて、ラジオから当り番号が流れはじめた。そのうち、最高位の五万ミルの当り籖が、カムポスの持っているガラガラ蛇札《カスカヴェル》のなかにあるという、声に続いて番号の発表。五九六二一番。――とたんに、カムポスが、ううと呻《うめ》いたのである。
 「どうした、カムポス、当ったのかい」
 「一番ちがい、大将、これをみてくれよ」
 みると、カムポスの札はたった一番ちがいで、五九六二〇番だ。たった一番――。むしろ酒よりもじぶんの運命に酔ったよう、黙って、カムポスはじっと卓を見つめている。折竹は、もうその時は昏々《こんこん》とねむっていたのだ。
 そんな訳で、翌日目を醒《さ》ましたのは日暮れ近くであった。みると、寝台のそばにカムポスがいて、じつに器用な手付きでズボンを繕《つくろ》っている。こいつ、昨夜のあのカムポスじゃないか。してみると、じぶんはカムポスに背負われてきたのだろう。そうそう、昨日の籖は一番違いだったっけがと……じっと目をつぶるとゆうべの記憶が、瞼《まぶた》の裏へ走馬燈のように走りはじめる。そこへ、カムポスがにこっと笑って、
 「兄弟《アミーゴ》、目が醒めたかね」
 きょうは、昨夜は大将だったのが、兄弟《アミーゴ》に変っている。そして針を手馴れた手付きで、スイスイと抜きながら、「どうだい、世帯持ちのいい、女房を持ちゃこんなもんだよ。これからは、みんなこんな工合に、俺が繕ってやる」
 「上手《うま》いもんだね」
 「そうとも、お針だって料理だって、出来ないものはないよ。俺は、コルセットの紐鉤《ちゅうこう》に新案さえもっている」
 この、奇抜な男が泥坊にもせよ、折竹はけっして厭がらなかったろう。いまは、意気投合というか絶妙な気合いで、二人の仲が完全に結ばれてしまったのである。たぶんカムポスは当分の食客を、折竹のいるこの室ですることになるだろう。とその夜、二日酔退治にまた酒となった席上。
 「じつは、大将に聴いてもらいたい話がある」と、なにやらカムポスが真剣顔《まがお》に切りだした。
 「それはな、ゆうべの動物富籖《ビッショ》の一番違いのやつさ。あれから、俺はとっくりと考えてみた。するとだよ。あの当り籖はガラガラ蛇札《カスカヴェル》の、五九六二一番、俺の札が、一番少なくて六二〇番。と、そのもう一番で上りという意味から考えて……なんだか俺はいま途方もないような、生涯に一度ともいう大運に近付いているんじゃないか――とマアそんな風に考えられてきたのだ」
 「担《かつ》ぐじゃないか」と折竹は面白そうに笑って、「だが、俺の国の判じようだと反対になるがね」
 「なんでだ」
 「つまり、俺の国でいう一番違いという意味は、運の、じき側までゆくがどうしても追い付けない、その、たった一番だけの距離をどうしても詰められない、とうとう、追っ付けずに一生を終ってしまうという、ごくごく悪い意味になるよ」
 「チェッ、縁起でもねえ」と、舌打ちはしたが自信は崩《くず》れぬばかりか、カムポスが大変なことを言いだしたのだ。
 「とにかく、俺は俺の考えをあくまでも押し通す。そういう気力には、逃げようとする運までも、寄ってくるというもんだ。で、大将にたいへんなお願いだがね、俺は、ここでいちばん運試しをしようと思う。一番先にある運をつかまえてやろうと思うんだ」
 「それには――」
 「大将に金を借りる。それで、俺は今夜、賭博場《キヤジノ》へゆく」
 折竹は、しばらくカムポスの顔をじっと見まもっていた。鉄面皮というか厚かましいというか、しかし、こういうことを些《いささ》かの悪怯《わるび》れさもなく、堂々と、些細《ささい》の渋ろいもなく言いだす奴も珍しい。気に入った。こりゃ、事によったらカムポスに運がくる。これで、この泥坊が足を洗えりゃ、俺は一つの陰徳をしたというもんだ。
 なにしろ、独り身で金の使いようもないうえに、週給五百ドルをもらう折竹のことであるから、たかが、千ドルや二千ドルなら歯牙《しが》にかけるにも当らない。よろしいと、彼はカムポスの申出でを、きっぱりと引きうけてやった。
 リオでは、「恋鳩《ポムピニヨス・エナモール》」の賭博場《キヤジノ》が最大である。折竹は、そこへ兼ねて紹介されていたが、ここで、困ったのがカムポスの処置。なにしろ、軽口師でございと大嘘をいって、あげくの果に追いだされた彼のこと。しかし、カムポスはご心配なくと、自信あるのか洒々《しゃあしゃあ》たるものだ。まず、鼻下の細|髭《ひげ》を剃り落しもみあげを長くして、これなら、三日|軽口師《ガルガーンタ》の「鼻《ナリシス》のカムポス」とは、誰がみようと分るまいというのである。そうして、その翌夜「恋鳩」へいった。
 歓楽地、リオへ遊ぶ一等船客級相手のナイトクラブ――。財布の底まで絞りにしぼって、オケラになったらまたお出でというのが、此処だ。したがって、リオの歓楽中いちばん暗黒のものが、賭博場《キヤジノ》をはじめ洩れなく揃《そろ》えられている。
 「君、一丁賭くか《ヴオツセ・ケル・アポスタール》[#ルビは「君、一丁賭くか」にかかる]」そんな声が、はやとっ突きの玉転がし場《ポーチャ》[#ルビは「玉転がし場」にかかる]からも響いてくる。婦人の、キラキラかがやくまっ白な胸、脂粉、歌声、ルーレットの金掻き棒《ロード》[#ルビは「金掻き棒」にかかる]の音。二人が、内部のキャバレーへはいると、パッと電気が消える。
 ※[#「※」は歌記号、第3水準1−3−28、215−9]これは白い《エステ・エ・ブランコ》[#ルビは「これは白い」にかかる] 白いは肌《ペルレ・エ・ブランコ》[#ルビは「白いは肌」にかかる]
 と、舞台の歌声とともに緞帳《どんちょう》があがるが、だんだん、その白いというのが肢だけでなくなるというのが、「恋鳩」のナイトクラブたるところだ。それから、キャバレーを出てちょっと口を湿しているうちに、ふいにカムポスがなにを見たのか、ボーイを呼びとめてあれ[#「あれ」に傍点]と顎《あご》をしゃくって見せた。
 「君、あのご婦人はなんて方だね」
 ボーイは、ちょっとその方向をみるや、にこりと笑って、
 「さすが、旦那さまはお目が高ういらっしゃる。あの、ちょっと小柄な金髪《ブロンド》でございましょう。お計らいなら手前致しますが、なんせい、美しいだけに《エー・ボニート》[#ルビは「美しいだけに」にかかる]、ちょっと高価うございますよ《マース・カーロ》[#ルビは「ちょっと高価うございますよ」にかかる]」
 すると、カムポスはそれを遮《さえぎ》って、違うと叱《しか》るように言った。
 「あれじゃない。ホラ、あの右にいる黒いドレスの方だ。あれは、まさかここの妓《こ》じゃあるまい」
 「ほう、あの方」とチップを貰ったボーイが、にこっとなって言った。「あの方は、グローリァ・ホテルにご滞在中とかでございます。ここでは、たまにルーレットをおやりになるくらいのもんで、マアこんなところへ何でお出でになっているのかと、手前どもも不審に存じあげておりますんです」
 その婦人は、もう娘という年ごろではないかもしれぬ。面長《おもなが》で、まさに白百合とでもいいたい上品な感じは、まったく周囲が周囲だけに際だって目立つのである。カムポスは、妙に熱をもったような瞳でじっとその婦人をみていたが、まもなく、運定めをする賭け場へはいっていった。

   魔境「蕨の切り株《トッコ・ダ・フェート》[#ルビは「蕨の切り株」にかかる]」

 そこは、人間の運がいろいろに廻転し、おい、奢るぞ《ヴォツセ・ケル・マタ・ビツシヨ》[#ルビは「おい、奢るぞ」にかかる]――と勢いよく出てくるのもあれば、曲ってる《ホージ・エ・アザール》[#ルビは「曲ってる」にかかる]! なんて三リンボウが続きァがるんだと、いずれは、ピストルのご厄介らしくうち悄《しお》れてしまうものもある。しかし、カムポスは気込んだ甲斐《かい》もなく、みごと「平均《バランス》」という賭け札でスッテンテンになってしまった。
 それみろ、やっぱり一番違いの解釈はおれのほうが正しい――と、じっと、その意味をこめた目でカムポスをみたとき……思わず折竹がアッと叫ぶようなことが起った。カムポスが札を置くとスイと立ちあがって、諸君と、室中を睨《ね》めまわすように言ったのである。
 「僕は、諸君に折り入っての相談がある。見られるとおり、武運|拙《つた》なくカラッ尻の態となったが、まだ僕は屈しようとはせぬ。それは、僕に抵当があったからだ。でまず、その品を諸君にお目にかけるとして、どうか、気に入った方は一勝負ねがいたい」
 といって、ポケットから掴《つか》みだしたものをザラザラッと音をたてて、カムポスが卓上に置いたのである。とたんに、室中のものがハッと息をのみ、思わず土まみれのままの燦爛《さんらん》たる光に……ダイヤ、しかも原石! と唖然《あぜん》たる態。
 「オイオイ、見てばかりいないで、なんとか言ってくれ」と無言の一座に業《ごう》が煮えてきたか、カムポスの声がだんだん荒くなってくる。「いいか、俺はこの五粒のダイヤを、売ろうてんじゃない。俺が一か、八かの抵当にしようというのは……ダイヤよりも土のほうなんだ。ねえ、この渓谷性金剛石土《カスカリヨ》がサラサラッと泣いて、十億《ビルリオン》、一兆億《トリリオン》のこんないい音が、欲張りどもに聴こえないかって言ってるぜ」と土を掬《すく》ったりこぼしたりしながら、最後にカムポスが条件を言った。
 「ところで、俺はこの世界にまだ一度も現われていないダイヤの新礦地の所在を賭ける。それにはまず、諸君の誰かに値を付けてもらう。そして、それだけの金額のご提供をねがう。いないか?![#「?!」は一文字、第3水準1−8−77、217−15] 俺を負かして所在を吐かせるやつは」
 即座《そくざ》に、室の隅のほうで五万ミルという声がしたが、カムポスはふり向きもしない。それから、五万五千、六万と小刻みにいって七万ミルまでくると、そこで声がハタとなくなってしまった。
 第一、風のごとくに現われたこの不思議な人物が
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