は、感謝の涙にあふれたロイスの目に送られながら、綱をといて窪みに降りていったのだ。無法、神に通ず――とは、カムポスの憲法《モットー》。今度も、三上を抱えてようやく戻ってきたのだが……、差しあげて、折竹に渡したとき足場を取りちがえ、ずぶっと深みへ落ちこんでしまった。とたんに、その震動で亀裂がおこり、泥水が流れ入ってくる。
 「あッ、カムポス」と、思ったときは胸までも漬《つか》っている。カムポスは、一度は血の気のひいたまっ蒼な顔になったが、やがて、観念したらしくにこっと折竹に笑《え》み、
 「駄目だ。俺は、もう駄目だから、君らは帰ってくれ。ホラ、みろ、上の土がだんだん崩れてくるじゃないか」
 「カムポスさん、私のことから、なんてすまないことに」
 とだんだん浸ってゆくカムポスに絶望を覚えるほど、いっそうロイスは切なく、絶え入るように泣きはじめた。
 「じゃ、カムポス」と、折竹がおろおろ声で言うと、彼は、
 「一番違い――動物富籖《ビツショ》のあれがやはりこれだったよ」
 それからロイスに向い、「御機嫌よう《ボーア》[#ルビは「御機嫌よう」にかかる]、気を付けてね《ヴイアジェン》[#ルビは「気を付けてね」にかかる]」と言った。
 それから、身を切られる思いで帰路についていた二人の耳へ、カムポスが高らかにいう声が聴えてきた。「シラノ・ド・ベルジュラック」の一節を朗誦《ろうしょう》している。シラノが、末期にうち明けなかった恋を告白しているところ……。
 「面白くもない私の生涯に、過ぎゆく女性の衣摺《きぬず》れの音を聴いたのも、まったくあなたのお蔭」
 ああと、ロイスが何事かをさとり、抱いていた三上の感触がスウッと飛び去ったような気がした。カムポスが私に恋し、私のために死んでくれた……。朗誦の声は、なおも続く。
 「哲学者たり、理学者たり、詩人、剣客、音楽家、また、天界の旅行者たり。恋愛の殉教者――カムポス・モンテシノスここに眠る」
 そして、声が杜絶《とだ》えた。



底本:「人外魔境」角川文庫、角川書店
   1978(昭和53)年6月10日発行
入力:笠原正純
校正:大西敦子
2000年9月15日公開
青空文庫作成ファイル:
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