ヨいった。二人はいいが……せっかく此処《ここ》まで漕ぎつけて失敗《しくじ》る俺は哀れだ」
 となおも手をついて起き上ろうと試みたとき、ふと掌のしたに紙のような手触りを感じた。みると、ケルミッシュが書いた走り書きのようなものだった。

 折竹君――
 僕とケティは、これからこの世界の向う側の国へゆく。君は、現実逃避をする僕を嗤《わら》うだろう。しかし、素志を達した僕は、このうえもなく満足だ。あの「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」には何があるだろう。ユートピア?![#「?!」は横一列] しかし僕は、小説にあるような美しさは求めてない。きっとそこには、冬眠生理でもあるような人間がいるだろう。ながい冬は眠り、短い春は耕す――そういう世界にこそユートピアはあるのだ。
 君よ、悠久うごかぬ雲に覆われた魔境「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」とともに、時々、僕とケティのことも思いだしてくれ給え。なおダネックは雪崩《なだれ》のしたにいるよ。
 雪橋《はし》をわたるまえとり急ぎ
                               ケルミッシュより

 その夜、主峰の雲のなかで囂々《ごうごう》と雷が荒れた。電光が、尖峰《パーク》をわたりながら、アジアの怒りのように……ダネックへは死、ケティとケルミッシュは己が手におさめ……一人ただ日本人折竹のみに生還を許したのである。そして折竹は、※[#「けものへん」に果、181−10]※[#「けものへん」に羅、181−10]《ローロー》の人夫の背に負われて、  Zwagri  《ツワグリ》、九十九江源地《ナブナテイヨ・ラハード》と囈言《うわごと》を言いながら魔境をでた。


底本:「人外魔境」角川ホラー文庫、角川書店
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:笠原正純
校正:福地博文
1999年2月13日公開
2000年3月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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