りますね。しかし、登行には科学的準備が要ります。もちろん、科学的鍛練、経験もものをいいます。僕は、これでも氷河とは十年も暮してますが、あの、『天母生上の雲湖』には赤児のように捻《ひね》られますぜ」
「では、私なんぞには登れぬと仰言るのですね。なるほど、私にはなんの鍛練もない。氷斧《ピッケル》を、どう使うかも知らないし、アルプスの空気も知りません。素人です。僕は、全然の無経験者です」
 それには、折竹もダネックも少なからず驚いた。冗談や粋狂でゆける「天母生上の雲湖」ではない。きっとこれは、いい加減なところまで往って引き返したうえ、「わが天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]死闘記」などと空々しいものを発表する、許しがたい売名漢ではないのか。ダネックも、さいしょは彼の競争者として警戒を怠らなかったのが、もう聴くも阿呆《あほ》らしいというような素振りになった。もちろん、そこまでのケルミッシュはいかにもそうであったろうが……。
「ですが、ダネック教授」とケルミッシュが改まったように、言った。
「私は、些《いささ》かながらあの魔境について知っております。あなたが、五か年の辛苦のすえやっと究《きわ》めたもの以上を、私は、ヨーロッパにおりながら不思議にも存じているのです。ねえ、まだ短文以外の探検記の発表はありませんね。隊員中、途中で帰国した方も一人もないと思いますが」
「ふうむ」ダネックは愚弄《ぐろう》されたように唸《うな》った。五年間、人力がつくせる最高のエネルギーを発揮して、氷河と、大烈風とひっ組んだじぶんのあの労苦を、いま舌三寸で事もなげにいうこのペテン師と、彼は怒気あふれた目で、ぐいと相手をにらみ据《す》えた。
「君が、そんな魔法使いなら羽くらいはあるだろう。どうだ、僕を『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』まで、乗せて飛んでいってくれ」
「いやいや、ただ私という男がけっして無価値なものでない――それを、ともかくお知らせしとこうと思うのです。ところで、あの外輪四山のうちの紅蓮峰《リム・ボー・チェ》の嶺ですね。あれは、東南からのぞめば角笛形をしているが、ちょっと、西へまわると隠れていた稜角《りょうかく》がでて、その形が円錐になりますね」
 これには、さすがのダネックもあっと驚いた。まだ、あ
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