フ山嶺の写真は一つしか発表してない。西側からのは、実をいうと写真にもとってないのだ。それを、万里の雲煙をへだてたヨーロッパにいて知るとは、なんという化物のような男だろうか。
 ダネックが、打ちのめされたように茫然《ぼうぜん》となっているところへ、ケルミッシュのもの静かな声が続く。
「これで、ダネック教授もお分りになったことと思う。私は、今次の探検についてあなたの協力を求める。いや、ぜひお力添えを得たいと思う。それに就いて……」
 と言いかけたとき、バタンと扉があいた。西日が叢葉《むらば》のすきから流れるなかへ金髪が燃え、ひとりの、白人女がふらふらと入ってきた。
「ああ、ケティ」ケルミッシュが、ちょっと眉をしかめ立ちあがって肩を抱いた。
 見ると、金髪の色といい碧眼《へきがん》の澄みかたといい、一点、非のうちどころのないドイツ娘である。しかし、それ以外の部分はなんという変りかた?![#「?!」は横一列] 厚い唇をだらりと空けた様《さま》。
 顔はだだ広く鼻は結節をなし、ほそい目の瞼がきりっと裂けている――まさに、このほうは完全な蒙古人だ。そのうえ、一目で白痴であるのが分るのだ。
 これかと、ダネックも折竹も唖然《あぜん》と目をみはった。これが、ケルミッシュの同伴者とはますます出でて奇怪だ。癡呆《ばか》を連れてきてあの大魔境へのぼる?![#「?!」は横一列] さっきの紅蓮峰《リム・ボー・チェ》の山嶺のことでグワンとのめされた二人は、いよいよ神秘錯雑をきわめるこのケルミッシュのために、いまは、引かれるままの夢中|裡《り》の彷徨《ほうこう》だ。
 日が落ちた。巨竹の影が消え角蛙《つのかわず》が啼《な》きだした。暑さはいくぶん退いたが、二人のこの汗は。

  大氷河の胎内へ

 その夜から、ダネックの懊悩《おうのう》がひどくなった。なんの、ペテン師、売名漢と初手から見くびったケルミッシュが、さながら人間以上のおそろしい力をもっている。もしも、彼ダネックが優秀な科学者でなければ……、ケルミッシュもあの娘も魔境「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」の、ユートピアの住人がひそかにあらわれたくらいに思うだろう。
 だが、この場合|懼《おそ》れるのは登攀の成功だ。魔境の大偉力に対するダネックの科学より、むしろ神秘対神秘力でケルミッシュではない
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