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とカークはびっくりして目をみはって、
「あんまり、唐突《だしぬけ》な話で訳がわからんが」
「それは、こういう訳だ。君ならここを抜けだして人里へゆけるだろう。なまじ、僕ら二人という足手まといがあるばかりに、せっかく、ある命を君が失うことになる。お願いだ。明日、僕らにかまわずここを発《た》ってくれないか」
「そうか」
としばらくカークは呆《あき》れたように相手をみていたが、
「なるほど、君らを捨ててゆくのはいと容易《やす》いが、しかし、ここに残ってどうするつもりだ」
「悪魔の尿溜へ、僕とマヌエラが踏みいるつもりなんだ」
「なに」
と、カークもさすがに驚いて、
「じゃ君らは、あの大|陥没地《クレーター》へ身を投げるつもりか……」
「そうだ、初志を貫く。だいたいこれが、僕の因循姑息《いんじゅんこそく》からはじまったことだから、むろん、じぶんが蒔《ま》いた種はじぶんで苅《か》るつもりだよ。マヌエラも、僕と一緒によろこんで死んでくれる。ただ、君だけは友情としても、どうにも僕らの巻添えにはしたくないんだ」
カークはマヌエラを振り向いた。彼女の目は断念《あきら》めきったあとの澄んだ恍惚さを湛《たた》えて、にんまりと座間をみている。おそらく全人類中のたった二人として、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]の底を踏んだときの二人の目はあの、ペンも想像も絶するおどろくべき怪奇と、また、恋の墓場としてのうつくしい夢をみるだろう。カークは、言葉を絶ってしばらく考えていた。
密林は、死んだような黄昏《たそがれ》の闇のなかを、ときどき王蛇《ボア》がとおるゴウッという響きがする。と、とつぜん、カークがポンと膝《ひざ》をうって言った。
「座間、名案があるぞ。僕にそんな莫迦気《ばかげ》たことを、いわないでもすむようになるぞ」
「えっ、なにがあるんだ?」
「それは、この蔦葛のうえを“Kintefwetefwe《キンテフェテフェ》”に利用するんだ」
「…………」
「つまり、コンゴの土語でいう『自然草の橋』という意味だ。ああ、これまでなぜ気がつかなかったんだろう」
リビングストーンのマヌイエマ探検の部に、その“Kintefwetefwe《キンテフェテフェ》”のことがくわしく記されてある。
――マヌイエマ近傍では、川を覆うて生草の橋ができる場合がある。つまり、両岸からの蔓が緊密にからみ合って、それがひろい川だと河床ちかくまで垂れてくる。踏むとふかふかとした蒲団《ふとん》のような感じで、足を雪から出すように抜きあげながら進む。
それがここでは、人間の身長の倍以上のたかさで、蔦や大蔓が砦《とりで》のようにかためている。
その自然の架橋を、いよいよ生気を復した三人がゆくことになり、やがて、マヌエラを押しあげてそのうえに立ったのである。この大湿林を、まさか上方からながめようとは思わなかったが、さすがその大眺望にはしばらく足を停めたほどだ。地平線は、樹海ではじまり樹海でおわっている。一色のふかい緑は空より濃く、まさに目のゆくかぎりを遮るものも、またこの単色をやぶる一物さえもないのだ。そうしてついに、この大湿林を抜けることができたのである。
楽々と、それまできた十倍以上を踏破し、北側の傾斜からまわって、絶壁のうえへ出ることができた。
見おろすと、眼下の悪魔の尿溜はいちめんの灰色の海だ。その涯がうつくしい残陽に燃え、ルウェンゾリの、絶嶺が孤島のようにうかんでいる。しかし、瘴癘《しょうれい》の湿地からのがれてほっとしたかと思えば、ここは一草だにない焦熱の野である。
赤い、地獄のような土がぼろぼろに焼けて、たまに草地があると思えばおそろしい流沙であった。そしてそこから、雨期には川になる砂川《サンド・リヴァ》が現われ、絶壁のちかくで地中に消えている。
「有難うカーク、どれほど君のために助かったことだろう」
「ほんとうですわ」
座間とマヌエラが真底から感謝した。それは、きて以来一滴も口にしない、おそろしい飢渇《きかつ》から救われたからだ。カークが砂川《サンド・リヴァ》の下の粘土層のうえが、地下流だというのをやっと思いだしたからである。ほかにも、ここへくると大枝をもってきて、ささやかながら小屋も建てられた。そうして、熱射も避け、水も手に入れ、ときどき鳥をうっては腹をみたす。が、なにより困ったのは青果類の欠乏で、そろそろ壊血病の危険が気遣《きづか》われるようになってきた。
すると、ちょうど六日目の午後に、一台の飛行機が上空に飛んできた。待ちに待ったアメリカ地学協会のものらしい。三人が飛びだして上着をふっていると、その飛行機からすうっと通信筒が落ちて来た。駆けよって、ひらいてみると、明日午後に――と書いてある。ながい惨苦ののちにやっとモザンビイクに帰れる。マヌエラは、感きわまって子供のように泣きはじめた。
しかしそのとき、その衝撃《ショック》が因でまたラターがおこった。今度は、カークのまえなので隠すこともできず、座間はその晩ねむれるどころではなかった。
(可哀そうな、かなしいマヌエラ。ここで、よしんば助かるにしろ、先々はどうなろう。治るまい、おそらく真の狂人《きちがい》に移ってゆくだろう)
暗中に、目を据えて焚火《たきび》を見つめながら、座間は痩《や》せ細るような思いだった。いまに、醜猥《しゅうわい》な言葉をわめき散らすようになれば、美しいマヌエラは死に、ただ見るものの好色をそそるだけになる。よしんば助かっても空骸がのこる。恥と醜汚のなかでマヌエラの肉体が生きるだけ……。
するとその時、座間の目のまえへ幻となって、一匹の野牛の顔があらわれた。
それは、コンデロガを発って間もなく、曠原《こうげん》の灌木帯で野牛を狩った時のこと、砂煙をたてて、牝の指揮者のもとに整然と行動する、その一群へ散弾をぶちこんだ。すると、腹をうたれたらしい一匹がもがいていると、他が危険をおかしてそれに躍《おど》りかかり、滅茶滅茶《めちゃめちゃ》に角で突いて殺してしまったのである。どうせ、駄目なものは苦しませぬようにと、野獣にも友愛の殺戮《さつりく》がある。医師にも、陰微な愛として安死術がある。
焚火のむこうで鬣狗《ハイエナ》が嗤《わら》うようにうずくまっている。とたんに、怪しい幽霊がじぶんをみているような気がした。やがて、夢も幻もないまっ暗な眠りがはじまったとき、座間は胸にかたい決意を秘めたのであった。
翌朝、もう数時間後にはここを去ろうというとき、マヌエラは絶壁の縁にたっていた。悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]の大景観を紙にとどめようとして、彼女がしきりとスケッチをとっている。そこへ、座間が背後からしのび寄ってきた。陽炎《かげろう》が、まるで焔《ほのお》のようにマヌエラを包んでいる。頭が熱し、瞼《まぶた》が焼けて、じぶんは地獄に墜《お》ちてもマヌエラを天に送ろうと、座間は目を瞑《つぶ》り絶叫に似た叫びをあげていた。
しかも、マヌエラをみるとまた決意が鈍ってくる。大きな愛だと心をはげまし近寄ってゆくうちに知らず知らず、座間は砂川《サンド・リヴァ》へはいってしまった。そこには殺すものが死に、殺されるものが生きる一つの偶然が潜んでいたのだ。彼は、水はなくとも砂が動くことは知らなかった。徐々に、彼のからだが前方にはこばれてゆき、やがて、あっという間もなく地上から消えてしまったのである。
それなり、座間の姿はけっして現われてこなかった。ただわずかな間に消えてしまったことが、まるで秘境「悪魔の尿溜」の呪《のろい》のように、マヌエラさえ思うよりほかになかった。
遂に「悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]」敗る
座間は死に、残る二人は助けられた。
マヌエラは、疲労と悲嘆のあげく床についてしまったが、それから一月後に一通の手紙が舞いこんできた。上封は、ヌヤングウェ駐在英軍測量部とあり、ひらくとなかにはもう一通の封書がある。それは、泥によごれ血にまみれてはいたが、目を疑うほどの驚きは、愛《いと》しいマヌエラへ、シチロウ、ザマより――とあるのだ。マヌエラは指先を震わせて封を切った。
マヌエラよ、天罰が私にくだった。あなたを、このうえ“Latah《ラター》”で苦しませるのは忍びぬと思いそっとあの断崖からつき落そうとしたとき……私は、砂流《サンド・リヴァ》に運ばれて地中に落ちこんだ。それは地中より湧《わ》きいで地中に消える暗黒河であった。
なん時間後か、なん日後か、とにかく私は闇のなかで目をさました。おそろしい冷気、冥路《よみじ》というのはこれかなと思ったほどだ。そしてどこかに、滝があるような水流の轟《とどろ》きがする。しかし、まだ私が死んでないということは、やがてからだを動かそうとしたときはっきりと分った。節々が灼けるように疼《うず》くのだ。私は、それでもやっと起きあがった。手さぐりで、からだを探ってみると雑嚢《ざつのう》がある。なかには、ライターもあり固形アルコールもある。――ああ、この、短い鉛筆でくわしくは書けない。
そこで、服地をすこし破いて固形アルコールで燃すと、ぐるりがぼんやり分ってきた。何処もかもが真白にみえる。目を疑った。すると、天井から雪のようなものが落ちてきた。甜《な》めて見ると唇につうんと辛味を感じた。それでやっと分った。私は砂川《サンド・リヴァ》から岩塩の層に落ちこんだのだ。地下水が岩塩を溶かしてつくる塩の洞窟だ。マヌエラ、あなたには想像もできまい。まるで月世界の山脈か砂丘のような起伏、石筍《せきじゅん》、天井からの無数の乳房、それが、光をうけるとパッと雪のようにかがやく。浄《きよ》らかな……まったくこんな中で死ねれば有難いと思った。
畝《うね》もある。なかには氷罅《クレヴァス》もある。ときどき、雹《ひょう》のようなのがばらばらっと降ったり、粉塩を小滝のように浴びることがある。と、ふとそばの壁をみたとき、思わず私ははっと呼吸《いき》をとめた。そこには巨《おお》きな粗毛だらけのまっ黒な手が、私を掴《つか》もうとするようにぬうっと突きでている。
マヌエラ、これが悪魔の尿溜の神秘「知られざる森の墓場《セブルクルム・ルクジ》[#ルビは「知られざる森の墓場」にかかる]」だ。
類人猿が、じぶんを埋葬にくる悲愁の終焉地《しゅうえんち》だと思うと、私はその壁を無性にかき崩《くず》した。すると、その響きにつれてどっと雪崩《なだ》れる。ああマヌエラ、塩を雪のようにかぶって起きあがったとき、一つ二つ、臨終そのままの姿であるいは立ち、あるいは蹲《うずく》まり、あるいは腕を曲げ、ゴリラや黒猩々が浮き彫りのように現われてくる。まったく絶えざる水蝕でかわるこの洞窟の中では、これが数百年あるいはなん千年まえのものか。ともかく、塩にうずまってすこしも腐らずに、今日まで原形を保ってきたのだ。ああ、私は悪魔の尿溜に入りこんで、最奥の神秘をみた全人類中のたった一人の男だ。
そうして、間もなく死ぬだろうじぶんさえも忘れ、ただ人間が自然に対してした最大の反逆を、歓喜のなかで溶けるように味わっていたのだ。
それから、滝は地底へと落ちている。それを知って、私は非常に落胆した。なぜなら、もしその地下水が絶壁へでていれば、そこから、悪魔の尿溜の大観を窺《うかが》うことができるし、また位置が低ければあるいは出ることもできよう。しかし駄目だ。私は底から盛りあがってくる暗黒の咆哮《ほうこう》に、いよいよ出口がなく、いま岩塩の壁で密閉されていることを悟った。事実も、絶えず洞窟の形が水蝕で変っているらしい。
すると私は、ここの低温度がひじょうに気になってきた。獣類ならともかく人間は、うかうかすると凍死する危険がある。まったく、アフリカ奥地の夏に凍え死ぬなんて、ここが地下数十尺の場所とはいえ皮肉なもんだと思った。
すると、そこへ一つの考えがうかんできた。それはいうのもじつに厭なことだが、いま暖をとるものといえ
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