撃ェあればてきめんに衰弱するとか、食べものを減らして皮膚の色をみろとか……、そんなこと、それは動物にすることだと思いますわ。ドドはあくまで人間で、あたくしの友だちです」
 ふかい、同情の念とかたい信念とで、マヌエラがきっぱりと言い切った。彼女の、骨にまで浸みたカトリックの教育は、よくこうした場合、一歩も退かせないのだ。座間は浄《きよ》らかな百合《ゆり》の花をみるように、しばしマヌエラの顔を恍惚《こうこつ》とながめていた。
 まったく、ドドはマヌエラのそばを一瞬の間もはなれようとしない。いないと、いまも聴えるように悲しそうな叫び声をたてる。
 お嬢さん、いまに魅入られますよ――と、カークは冗談に言ったけれど、まったく二人の親密さにはそう言いたくなる。
 ところが、その夜不思議な出来事がおこった。
 夜になると、温度はいくぶん下がるけれど、その倦怠《けんたい》さと発汗の気味わるさ。湿気の暈《かさ》が電灯の灯をとりまいている。
 こういう時には、ドドの唸《うな》り声さえもちがってくる。じつに、誰でも平常でなくなるような、蒸し暑い、いやな晩であった。
 その夕、座間はヤンと激論を戦わした。それは、ドドを売れば十万やそこらにはなるだろうから、それにヤンの資産をくわえて研究所を拡張し、名実兼ねた総合病院にしようというのだった。つまり、座間がしている社会施設を、ヤンが営利化しようというのである。
 しかし、これには、なによりマヌエラが真向から反対した。それでも、ヤンは嘲笑《せせらわら》って、なアにお父さんを説き伏せて晩にきますよと、洒々《しゃあしゃあ》と自信ありげに帰っていったのである。そうして、研究所に一つの危機がくることになった。
 と、その夜、座間が寝つかれないので、書斎へゆこうとしたとき、ドドの部屋のまえをとおると、鍵がおりてない。そこへ、患者面会人がやすむ部屋のほうで、微かにごそりごそりと音がする。まさか、ドドが逃げるわけはないがと、そっとその部屋の扉をひらいたときだった。思わず、あッと叫びそうなのを辛《から》くも抑えたほど、座間ははげしい駭《おどろ》きにうたれた。
 そこにいたのは……ドドではない。さっきの憎しみを忘れたように、ヤンとマヌエラが抱かんばかりに向き合っている。座間はまず、じぶんの目を疑った。続いて、耳までも疑わねばならぬような会話を聞いた。
「あたしを愛してくれますか」
 ちょっと、漁色にすさんだヤンでもふるえた声で言うと、
「ええ、あたしも愛してくれますか」とマヌエラも切なそうに呼吸《いき》をする。
 あのマヌエラ、昼間のマヌエラがなんという変りかた?![#「?!」は一字]
 丁度このとき、おおきな伸びをしながらカークが降りてきた。すると、ヤンはいきなりマヌエラを突きはなし、手をふりながら向うの扉から消えてしまった。座間は、この世界がまっ暗になったような気持で、ただその場に茫然《ぼうぜん》と立ち竦《すく》んでいた。
 と、ヤンの姿が消えたと思ったとき、またも座間をあっと言わせるようなことが起った。
 それは、清浄|無垢《むく》なマヌエラとも思われない……、また淑女たらずとも普通の町家の女でも、よもや口にはしまいと思われるような醜猥《しゅうわい》な事柄を、まるでじぶん自身に言いきかすかのように、マヌエラがべらべらと喋《しゃべ》りはじめたからだ。
 マヌエラ! 断じて幽霊ではない、真実のマヌエラだ。昼間の、灼かれようとも挫《くじ》けない人道主義《ヒューマニズム》の天使が、夜は、想像もされない別貌をしてあらわれたのだ。どっちだ? どっちが本当のマヌエラかと、座間は白痴のように頭を振り振り廊下へでていった。
 と出会いがしらに、ドドの手を引いてカークがやってきた。
「君、馴育《じゅんいく》掛りのお嬢さんへようくいわなきァ駄目だぜ。鍵を忘れたもんだから勝手にでちまって、それに、此奴《こいつ》までがえらく亢奮《こうふん》している」
「どこにいたんだ?」
「患者面会人室の廊下の羽目際だ。なにか、こいつが亢奮《こうふん》するようなことがあったらしい」
 なるほど、これまでのドドには決してみられなかった、一種異様な激情のさまを呈している。犬歯を歯齦《はぐき》まで鉤《かぎ》のようにむきだして、瞳は充血で金色にひかっている。そして、ひくい唸り声を絶《き》れ絶《ぎ》れにたてながら、今にもかくれた野性がむんずと起きそうな、カークでさえハッと手をひくような有様だった。
 それからドドをいれて扉に鍵をおろすと、座間はカークを促《うな》がしながら戸外へ出ていった。やがて本土とのあいだが二町ばかりにせまっている、有名なマラガシュの入江に出た。
 湯のような雨……くらい潮が……ぽうっと燐光にひかる波頭をよせてくる。そして砂上の、ひいたあとは星月夜の
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