恋に憧れる身となり、はるばるウオルムスの城に赴いたのである。しかし、その門出に、悪しき予占ありといって止められたのであったが、思えばそれは、やがて起る悲劇の兆しだったのであろう。
 さてジーグフリードは、ウオルムスの城内のおいていたく歓迎され、ことに武芸を闘わして、クリームヒルトの嘆賞するところとなった。しかし姫は、それから一年もジーグフリードとは遇わず、ただ居室の高窓から微笑を送るのみであった。
 と、そのうち、姫とジーグフリードを結びつける機会がきた。それはグンテル王が、ひそかに想いを焦がすブルンヒルデ女王であって、ブルンヒルデは、アイゼンシュタイン河を隔てた洋上に砦《とりで》をきずき、われに勝る勇士あれば、嫁《かし》づかんと宣言していたのである。
 すなわち、ブルンヒルデ女王こそは、北方精神の権化ともいう、鬼神的女王なのであった。
 だからこそ、グンテル王は自分の力量を知って、それまで女王に近づこうとはしなかったのである。しかし、いまは吾れにジーグフリードあり。王は奇策を胸に秘めて、アイゼンシュタインの城へ赴いた。
 そこで、ジーグフリードは、かねてニーベルンゲン族から奪ったところの|隠れ衣《タルンカッペ》を用い、王に化けて、女王の驕慢を打ち破ったのであった。そして、王は女王と、ジーグフリードはクリームヒルトと結婚することができた。
 しかしブルンヒルデは、うち負かされたグンテルに、愛を感じなかったのみならず、ジーグフリードを慕い、やがてその身代りなのを知ると同時に、変じて憎悪となった。また一方、ジーグフリードの名声を妬むものに、ハーゲンがあって、その二人は、いつか知らず知らぬ間のうち接近してしまった。ある日、二人の睦まじさに耐えかねた女王が、こっそりと、ハーゲンの耳におそろしい偽りを囁いた。
「ハーゲンよ、かつて妾《わらわ》は、ジーグフリードのために、いうべからざる汚辱をこうむりました。王は、それを秘し隠してはいますが、そなたは、妾《わらわ》にうち明けてくれましょうな。アイゼンシュタインの城内で、妾をうち負かしたグンテルが、何者であったか。また、その後も王に仮身して、しばしば妾の寝所を訪れたのは、誰か。ほほほほハーゲン、そちは、顔色を変えてなんとしやる。そうであろう。ジーグフリード……。妾は、とうからそれを知っておりましたぞ」
 ハーゲンは、それを聴いて、ますます殺害《せつがい》の意志を固くした。また、女王とクリームヒルトの仲も、不仲というより、むしろ公然と反目し合うようになった。そうして、やがてハーゲンは、一つの奸策を編み出したのである。
 それは、剣もこぼれるというジーグフリードの身体《からだ》に、どこか一個所、生身《なまみ》と異ならぬ弱点があるからだ。それを知ろうと、ハーゲンはクリームヒルトをたぶらかし、聴きだすことができた。すなわち、隣国との戦雲に言よせられて、公主の心は、怪しくも乱されてしまったのである。
「それでは[#「それでは」は太字]、私[#「私」は太字]、目印をつけておきますわ[#「目印をつけておきますわ」は太字]。綺麗な絹糸で[#「綺麗な絹糸で」は太字]、十字をそのうえに縫いつけておきましょう[#「十字をそのうえに縫いつけておきましょう」は太字]。ですから[#「ですから」は太字]、もしものとき乱陣のなかでも[#「もしものとき乱陣のなかでも」は太字]、それを目印に夫を護ってくださいましね[#「それを目印に夫を護ってくださいましね」は太字]」
 そうして、殺害のモティフが物凄く轟きはじめたころ、勇士の運命を決する、猪《しし》狩がはじまった。
 しかしクリームヒルトは、その朝、前夜の夢を夫に物語ったのであった。
「わたくし昨夜《ゆうべ》は、恐ろしい夢を二つほど見ましたの。まだ、こんなに、破れるような動悸《どうき》がして……。わたくし貴方を、狩猟にやるのが心許《こころもと》なくなってきましたわ」
 と、夫にとり縋って、諫《いさ》めたが聴かれなかった。そこで、いよいよ心許なく、クリームヒルトは喘《あえ》ぎ喘ぎ云うのであった。
「では、お聴かせいたしますけど……。はじめのは、あなたが二匹の猪にさいなまれていて、みるみる、野の草のうえに血が滴ってゆくのでした」
「そんなこと、なんでもないじゃないか。いいから、次のをお話し……」
「その次は、暁まえの醒め際に見たのですけど、
 あなたが[#「あなたが」は太字]、谷間をお歩きになっていらっしゃると[#「谷間をお歩きになっていらっしゃると」は太字]、突然二つの山が[#「突然二つの山が」は太字]、あなたのお[#「あなたのお」は太字]|頭[#「頭」は太字]《つむり》のうえに落ちてくるのです[#「のうえに落ちてくるのです」は太字]。
 あなた、それでも、これが悪夢ではないとおっしゃるの。これでも、きょうの狩倉《かりくら》へいらっしゃいますの」
 しかし、妻の手を振り払って、ジーグフリードは猪狩《ししがり》に赴いたのである。
 その森には、清らかな泉があって、疲れたジーグフリードが咽喉をしめそうとしたとき、突如背後から、きらめく長槍が突きだされた。そうして、肩にのこる致命の一ヶ所を貫かれて、ジーグフリードは、あえなくハーゲンの手にこの世を去ったのであった。
 やがて、その屍体は、獲物とともにクリームヒルトのもとに届けられた。しかし彼女は、悲哀のうちにも眦《まなじり》きびしく、棺車の審判をもとめたのである。
 それは[#「それは」は太字]、加害者[#「加害者」は太字]|惨屍[#「惨屍」は太字]《むくろ》のかたわらに来るときは[#「のかたわらに来るときは」は太字]、傷破れて[#「傷破れて」は太字]、血を流すという[#「血を流すという」は太字]……。
 はたしてそれが、ハーゲン・トロンエであった。クリームヒルトは、それをみて心に頷《うなず》くところあり、ひそかに復讐の機を待って、十三年の歳月を過した。ウオルムスの城内に、鬱々と籠居して、爪をとぎ、復讐の機を狙うクリームヒルト……。
 そうして、「ニーベルンゲン譚詩《リード》」は下巻へと移るのである。
[#ここで字下げ終わり]

 しかし、悲壮残忍をきわめたこの大史詩の大団円を、映画に楽劇に、知られる読者諸君もけっして少なくはないであろう。
 十三年間、一刻も変らずに、ジーグフリードにむけ、ひたむきに注がれるクリームヒルトの愛は、いかに人倫にそむき、兄弟を殲滅《せんめつ》し尽すとはいえ、その不滅の愛――ただ復讐一途に生きる、残忍な皇后とばかりはいえないのである。
 その故人を慕って、いまなお尽きぬ苦恋の炎が、この一篇を流れつらぬく大伝奇の琴線なのである。

 十八年の昔、トリエステにおこった出来事と、ジーグフリードの死……。また、ジーグフリードの致命個所とは……さらに、それをハーゲンに告げた、衣のうえの十字形とは……。そうしてまた、二人の女性のいずれが、ウルリーケにあたるか。すなわち、故人を慕っていまなお止まぬクリームヒルトか、それとも、|隠れ衣《タルンカッペ》に欺かれたブルンヒルデが、それか……。
 作者は、かく時代をへだてた二つの物語をつらね、その寓喩と変転の線上で、海底の惨劇を終局まで綴りつづけていきたいのである。

「ホホウ、『ニーベルンゲン譚詩《リード》』――世界古典叢書《ワールズ・フェマス・クラシックス》だな。これはラスベルグ稿本《マニュスクリプト》の逐字訳で、英訳の中では一番価値の高いものなんだが」
 と、ずしりと腕に耐《こた》える部厚なものを繰ってゆくうちに、ふと四、五頁、貼りついている部分があるのにぶつかった。
 それには、頁の中央から糸目にかけ、薄い水のような液体の流れた跡が示されている。
 法水《のりみず》はしばらくそれを嗅いでいたが、やがて彼の眼に、恍《う》っとりと魅せられたような色が泛《うか》び上がってきた。
「ねえ支倉《はぜくら》君、僕がもし、ボードレールほどに、交感《コレスポンダンス》の神秘境に達しているのだったら、この涙の匂いで、ウルリーケをいったいなんと唱うだろうね。これからは、牧場のごとく緑なる……嬰児《あかご》の肉のごとくすずしく……また荘重な、深い魂の呻《うめ》きを聴くことができるのだよ」
 その涙の跡は、片時もウルリーケの心の底を離れやらぬ幻――故フォン・エッセン男を慕って火よりも強く、滾々《こんこん》と尽きるを知らぬ熱情の泉だった。
 ところが、まもなくそういった感情も、好色的な薄笑いも彼の顔から消え失せてしまって、眼が、まるで貪《むさ》ぼるかのごとく、一枚の上に釘づけされてしまった。
 それは、英雄ジーグフリードの妻クリームヒルトが、夫を害しようとするハーゲンに瞞《たぶ》らかされて、刃《やいば》も通らぬ夫の身体の中に、一個所だけ弱点があるのを打ち明けてしまう章句《ところ》だった。

 As from the dragon's death wounds gush'd out the crimson gore, with the smoking torrent the worrior wash'd him o'er.
 A Leaf then 'twixt his shoulders fell from the linden baugh, there only steel can harm him; for that I tremble now.
【悪竜の命を絶ちし傷より、深紅の血潮ほとばしり出でたれば、かの勇士その煙霧のごとき流れに身をひたす。その時、菩提樹の枝より一枚の葉舞い落ちて、彼の肩を離れず、その個所《ところ》のみ彼を傷つけるを得ん。されば、われその手を懼《おそ》るるなり】

 それから、三句ばかりの後にも、次の一つがあった。

 Said she "Upon his vesture with a fine silken thread, I'll sew a secret crosslet.
【クリームヒルトは云う――。われ秘《ひそ》かに美《うるわ》しき絹糸もて、衣の上に十字を縫いおかん】

「いつかは判《わか》ることだろうが、この数章の中に、二個所だけ、紫鉛筆で傍線《アンダーライン》が引いてある―― Leaf《リーフ》(葉)と Crosslet《クロスレット》(十字形)の下にだ。だが、けっしてこれは今日このごろ記されたものではない。とにかく支倉君、この艇内日誌を調べてみることにしよう。そうしたら、あるいはこの傍線《アンダーライン》の意味が、判ってくるかもしれないからね」
 と飽くことを知らない彼の探求心は、普通ならば誰しも看過《みのが》すかと思われるような、傍線《アンダーライン》の上に神経をとどめた。
 そして、白いズック表紙の艇内日誌を開いたが、その時二人の眼にサッと駭《おどろ》きの色がかすめた。
 というのは、最初の一頁と、中ごろにある伊太利《イタリー》戦闘艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の雷撃を記した、一枚以外の部分は、ことごとく切り取られているからだった。
 ところが、それを初めから読み下していくうちに、最初の日の記述の中から、次の一章を拾い上げることができた。

 ――ウルリーケが首途《かどで》の贈り物に、「ニーベルンゲン譚詩《リード》」をもってした真意は、判然としないが、彼女はそのうちの一節に紫鉛筆で印しをつけ、かたわらの艇員の眼を怖れるようにして余《よ》に示した。
 余はただちにその意味を覚ったので、くれぐれも注意する旨を述べ、彼女に感謝した。しかし、それがために心は暗く、彼女の思慮はかえって前途に暗影を投げた。

      三、深夜防堤の彷徨《ほうこう》者

「法水《のりみず》君、分った、やっと分ったよ。傍線《アンダーライン》をつけたのは、やはりウルリーケだったのだ」
 検事が勢い込むのを、法水は不審げに眺めていたが、
「分ったって……、いったい何が分ったのだ?」
「つまり、葉《リーフ》と十字形《クロスレット》さ。いわばこいつは、ジーグフリードの致命点だっ
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