スからね。それに、傍線を引いて、フォン・エッセンに示したところをみると、何かそこになくてはならぬわけだろう」
「なるほど、辻褄《つじつま》は合うがね。だが僕は、君の云うような、安手な満足はせんよ。大いに出来ん。とにかく、もっと先を読んでみよう」
と、彼は頁を繰り、タラント軍港における、巨艦雷撃の個所を読みはじめた。
――一日の仕事が終って、きょうも日が暮れようとする。
余はわが艇を、アドリアチックの海底に沈め休息をとることになった。艇自身は、まるで寝床にいるような、柔らかな砂上に横臥している。天候は、穏やかである。砂上にある艇も、ユラユラ動揺することもない。
ところが、ふと、聴音器に推進機《スクリュー》の響きが聴えてきた。
そこで、ふたたび浮揚し潜望鏡《ペリスコープ》を出してみると、残陽を浴び、帆を燃え立たせた漁船の群が、一隻の汽船を中心に、網を入れつつある。
好餌《こうじ》――余の胸に、餓えた狼が羊を見るような、衝動がこみあがってきた。盲弾《めくらだま》を放ったにしろ、たしか十隻はうち沈めることができる。ちょうど、射撃演習そっくりにあの汽船を撃沈すれば、燃料や食料品はしこたま手に入るだろう。
が反面には、潜航艇出没の警報が、風のように流布される懼《おそ》れがある。明暁《あす》の決行――それまでは何事も差し控えねばならぬ。
と、余は胸をさすりさすり水深を測ったのち、艇をふたたび沈下せしめた。
深度器を見ながら、機関部に、いま海底に着くぞという声が、唇を離れようとしたとき、艇体に微震を感じた。これで、艇体がまったく着底したわけである。
余は、底荷水槽《バラストタンク》に水を入れ、動揺を防いだのち、艇首から艇尾まで充分に点検させた。それが終り、「すべて固く密閉、故障なし」の報告があって、余は総員に、部署を離れ充分に休養するよう――命じた。
ここは、風波の憂いもなく、敵襲の怖れもなく、世界中で最も安全な地点である。しかも、激務を終ったのちの、休養の愉快さは、他に比すべきものもないであろう。各自の部署を離れて、兵員室に行く部下の顔は明日の決行を思い、誇りと喜悦の色に輝いている。
それから、昏々と眠りつつあったとき、大声で、艇長、三時三十分です――と呼び醒《さま》されたのであった。聴けば、二時頃から|横揺れ《ローリング》をはじめ、天候が変って、海上は、風波強いらしく思われた。
そこで、早目の朝食後、余は総員に訓示をあたえた。
「諸君よ、今暁吾々が行う潜行は、祖国を頽廃《たいはい》から救う、偉大なる隠れんぼうである。しかし、怖れることはない。普魯西《プロシヤ》には、われわれ以前に、赫々《かくかく》たる功勲にかがやく、戦友が多々いるのである。今暁《こんぎょう》われわれは、彼ら以上の大成功を期待している。諸君よ、怖れず今暁《けさ》も子供のように隠れようではないか。余は各自が、充分その任務を尽さんことを望む。諸君、サア、浮揚の部署につこう」
それから、艇を水面下十|米《メートル》の位置に置き、静かに潜望鏡《ペリスコープ》を出して、四囲の形勢をうかがった。しかし、海上は波高く、展望はきかなかった。
が、右舷のはるかに、黒々と防波堤が見え、星のように燦《きら》めくタラント軍港の燈火――いまや、戦艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は目睫《もくしょう》の間《かん》に迫ったのである。
水上に出ると、頬に、払暁の空気が刺すように感じた。本艇は、このとき通風筒をひらき新鮮な空気を送ったのち、やおら行動を開始したのであった。
朝霧のために、防波堤の形は少しも見えないのであるが、その足元で、砕ける波頭だけは、暈《ぼ》っと暗がりのなかに見えた。艇を進め、入江に入り込んだとき、霧はますます酷《ひど》くなってきた。
「止むを得ん。こりゃ、亀の子潜行だ」
それは、潜望鏡《ペリスコープ》の視野が拡大された今日では、すでに旧式戦術である。敵艦に近づき、突如水面に躍り出で、そうしてから、また潜《もぐ》って、魚雷発射の機会を狙うのである。
と、ルーレットの目に、身を賭けたわれわれは、ここに、予想もされなかったところの、強行襲撃にでた。
展望塔は活気づいてきた。神経が極度に緊張して、もう伊太利《イタリー》の領海だぞ――という意識がわれわれを励ましてくれた。
その時、漠々たる闇の彼方に、一つの手提げ灯が現われたのである。そして、大きな声で、
「オーイ、レオナルド・ダ・ヴィンチ……」
と呼ぶ声が聴えた。
僚艦の一つらしく、続いて現われた灯に、本艇は、戦艦レオナルド・ダ・ヴィンチの所在を知ったのであった。が、そのとき、何ものか艇首に触れたと見えて、ズシンと顫《ふる》えるような衝撃が伝わったのである。
「捕獲網か……」
瞬間、眼先きが、クラクラと暗くなったが、艇は何事もなく進んでいく。しかし、本艇は、陸上の警報器に続いている、浮標に触れたのであった。やがて、砂丘の向うが、赫《か》っと明るくなったと思うと、天に冲《ちゅう》した、光の帯が倒れるように落ちかかってきた。
「いかん。早く、それ、魚雷網が下りぬうちに、発射するんだ!」
みるみる、陸から砲火が激しくなって、入江の中はたぎり返るようになってしまった。水に激する小波烟にも、ハッと胸を躍らすのであったが、まもなく闇の彼方に、鈍い、引き摺《ず》るような音響がおこった。
艇が、グラグラと揺れ、潜望鏡《ペリスコープ》には、海面から渦巻きあがる火竜のような火柱が映った。本艇は、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」号の鑑底下を潜《もぐ》り、まず、第一の魚雷を発射したのであった。そうして、再び潜行し、今度は入江の鼻――距離約二千|碼《ヤード》とおぼしいあたりから、とどめの二矢を火焔めがけて射ち出したのである。
この逆戦法に、敵はまんまと、思う壺に入ってしまった。砲|塁《るい》や他の艦が、それと気づいた頃にはおそく、本艇は、白みゆく薄闇を衝《つ》いて、唸《うな》りながら驀進《ばくしん》していた。
艦側から、海中に飛び込む兵員、しだいに現われゆく赤い船腹、やがて、魚雷網の支柱にまで火が移って、まったく一団の火焔と化してしまったのである。
かくて、戦艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は、タラント軍港の水面下に没し去っていったのであった。
「見ておくがいいよ。|モナ・リーザ嬢《フロイライン・モナ・リーザ》が、いまゲラゲラと狂《きちが》い笑いをしているんだ。ダ・ヴィンチ先生のせっかくの傑作も、ああもだらしなく、吹き出すようじゃおしまいだね」
余は、安全区域に出ると、さっそく勝報を送ったが、すぐ打ち返してきた返電を見ると、唖然とした。
――貴官は目下、海軍高等審判に附されつつあり。
かくて余は、七つの海を永遠に彷徨《さまよ》わねばならぬ身になった。
祖国よ! 法規とは何か。区々たる規律が、戦敗《せんぱい》崩壊後に、なにするものぞ。
読んでゆくうちに、法水の眼頭《めがしら》が、じっくと霑《うる》んでいった。しばらくは声もなくじっと見つめているのを、検事は醒ますように、がんと肩をたたいた。
「どうしたんだい、いやァに感激しているじゃないか。しかし、仏様のことだけは、忘れんようにしてもらいたいね」
「じゃ、なにか君は分ったというのかね。君は、あの傍線《アンダーライン》にとっ憑かれているようだが……」
「僕は、なにか艇長の肉体に、秘密があるんじゃないかと思うんだ。それを妻らしく、ウルリーケがお気をつけなさい――と注意したのではないかね。いや、なにも決定的なものじゃないさ。ただ、対象がジーグフリードなんでね。あて推量だけでは、図星がそこへいくというわけになるだろう。とにかく、菩提樹《リンデン》の葉で出来たというジーグフリードの致命点が、この場合、フォン・エッセンの何にあたるか――さっぱりぼくには、この取り合せが呑《の》みこめんのだがね」
と検事は惑乱したように云ったが、さらに「ニーベルンゲン譚詩《リード》」を繰ってゆくうち、第二の発見が生れた。
というのは、ジーグフリードの殺される山狩の日の朝、クリームヒルトが前夜の悪夢を語るというところで、
Last night I dreamt, two mountains fell thundering on thy head, And I nomore beheld thee.
【昨夜|妾《わらわ》は夢みたりき。山二つ響き高鳴りて汝《な》が頭《こうべ》に落ち、もはや汝が姿を見る能《あた》わざりき】
とある下の空行に、次の数句の詩が記されてあったのである。
それは、明らかにウルリーケの筆跡であって、インクの痕もいまだに生々《なまなま》しかった。彼女は自分の夢を、この章句の下に書きつけておいたのだ。
――われ、眠りてよりすぐ夢みたり。そこはいと暑き夏の日暮、夕陽に輝ける園にして、その光はしだいに薄れ行きたり。
そのうちに、一枚の菩提樹《リンデン》の葉チューリップの上に落つるを見、更に歩むうち、今度は広々とした池に出会いて、その畔《ほと》りに咲く撫子《カーネーション》を見るに、みな垂れ下がるほど巨《おお》いなる瓣《はなびら》を持てり。
われ、それを取り去らんとするも数限りなく、やがて悲歎の声を発するのを聴きて、みずから眼醒む。
「僕はフロイドじゃないがね。これは一種の、艶夢《セキズョレ・トラウム》じゃないかと思うよ」
と検事は莨《たばこ》の煙を吐《は》いて、いつまでも法水の眼を嘲った。
「だって、あの戦女《ワルキューレ》みたいな、てんで意志だけしかないような冷たい女にだって、ときおりは愛使《キューピッド》が扉《ドア》を叩くことがあるだろう。ところが、亭主の八住ときたら、いつも精神的な澄まし汁みたいなもので、その中には肉片もなければ、団子一つ浮いちゃいないんだ」
「なるほど、そうなるかねえ」
と法水は、検事の好諧謔にたまらなく苦笑したが、めずらしく口を噤《つぐ》んでいて、彼はいっこうに知見を主張しようとはしなかった。
そして、「ニーベルンゲン譚詩《リード》」を片手に下げたまま、旧《もと》の室にぶらりと戻っていった。が、はからずもそこで、この事件の浪漫《ローマン》的な神秘が、いちだんと濃くされた。
彼はそこにいる三人を前にして、妙に底のあるらしい言葉を口にした。
「僕は、だんだんとこの事件が、いわゆる法則でないと呼ぶものに、一致するような世界であることが判ってきました。
それは、純然たる空想の産物で、まったくの狂気が勝を制する世界なのです。その中には、神や精霊が現われてきますが、しかしそれは、その世界でのみあると信じられているもので、少なくとも僕らは、一応それに額縁を嵌《は》めてみる必要があると思うのです。
ところでこれは、いったい流星の芝居なんでしょうか。それとも、地上の出来事なんでしょうかね」
と本の一個所を開いて、彼は読みはじめたが、その内容は、白い地に置かれた黒そのもののように、対象をくっきりと泛《うか》び上がらせた。
When the blood−stain'd murderer comes to the murder'd nigh, the wounds break out a−bleeding.
【血に汚れし殺人者、惨屍《むくろ》のかたわらに来たるときは、創《きず》破れて血を流すと云う】
殺人者を指摘する屍体の流血――それを法水が読み終ると、一同の眼は期せずして犬射の顔に注がれた。
なぜなら、八住の死後十時間後に起った流血は、彼が、その傍らに立っているさなかに始まったからである。
しかし、犬射の驚きの色はやがて怒りに変って、
「遺憾ですが――法水さん、それは僕の洒落《しゃれ》じゃありませんよ」
とどこか皮肉な調子ながら、悲しげに云い返した。
「いや、それどころじゃない、怖ろしい空想です。そんなことから、この事件はいっそう面倒なものになりましょう」
「僕は、そうとはけっして思いませんがね」
法水は、力
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