引きちぎった検圧計もろとも、背後に倒れたのではないかと推断された。
 そうすると、案外刺傷の位置がものをいって、心臓を突かなかったのも、事によったら突き損ねたのであって、あるいは三人の盲人のうちでか――とも考えられるが、一方には、兇器がこの室になく、というよりも不可解至極な消失を演じ去ったのであるから、その点にゆき当たると、依然盲人は、この血の絵に凄気を添えている、三つの点景にすぎないとしか思われないのであった。
 その時、片隅にいる一団に遠慮したような声で、法水は検事に囁《ささや》いた。
「見給え支倉君、これも、今までの定跡《じょうせき》集にはなかったことだよ」
 と検事に、赤※[#「魚+覃」、第3水準1−94−50]《あかえい》のような形をしたドス黒いものを示した。
 それは、創口《きずぐち》を塞いでいる凝血の塊だったが、底を返して見て、検事は真蒼《まっさお》になってしまった。
「どうだ! 細い直線の溝があるじゃないか。たしか針金か何かで、皮膚と平行に突っ込んだにちがいないよ」
「たぶんそうだろうと思うがね。そうすると、これほど手数のかかる微細画《ミニアチュア》をだ。しかも、犬射復六を前に、堂々と描き去った者がなけりゃならんわけだろう。
 ところが、この奥の室には、先刻《さっき》から朝枝という娘がいるそうだけど、こんな静かな中で、盲人の聴覚が把手《ノッブ》の捻《ひね》り一つ聴きのがすものじゃない。それにあの娘は、今朝この『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』には、乗り込んでいなかったのだ。
 そこで支倉君、この結論を云えばだ――絶対に盲人のなし得るところではないということ。それから、一人の妖精じみた存在が、どうやら明瞭《はっきり》しかけてきたという事なんだ」
 それから法水は、ウルリーケを手招いて、当時四人が占めていた位置を訴《ただ》した。
 すると、一々椅子を据えてウルリーケは右端から指摘していった。
「ここが、石割さんでございました。それからヴィデさん、次が主人、そして最後が、犬射というのが順序なのです。
 ところが、先ほども申しましたように、犬射さんは立ち上がってうろうろしていたのです、だが、ヴィデさんだけは泰然と構えておりました。
 また石割さんときたら、それは滑稽にもまた惨《みじ》めな形で、肩をぴくんと張った厳《いか》つさに似合わず、両膝を床について、ぶるぶる顫《ふる》えていたのでしたわ」
[#四人の位置関係を示す図(fig43656_01.png)入る]
 ウルリーケが再び片隅に去ると、法水はしばらく額の皺を狭めて考えていたが、やがて、検事をニコリともせず見て、別の事を云いだした。
「ねえ支倉君、できることなら、見当ちがいの努力をせんように、おたがいが注意しようじゃないか。
 何より怖ろしいのは、僕らの方で心気症的《ヒポコンデリック》な壁……それを心理的に築き上げてしまうことなんだよ。現にこの卍《まんじ》の形がそうなんだが、いつぞやの黒死館で、クリヴォフの死体の上に何があったと思うね。
 あの時、それが手の形をして、壇上の右手を指差していた。なるほど、それには犯人の伸子《のぶこ》がいたにはちがいないが、しかし理論的に、なんといって証明するものではない。
 こんなつまらん小細工に引っかかって、心の法則というやつを作られては堪《たま》らんからね」
 けれども、その卍の形は、絶えず嘲《あざけ》るかのごとくびくびく蠢《うごめ》いていて、舷側で波が砕け散るときには薄紅く透いて見え、また、その泡が消え去るまでの間は、四つの手が、薄気味悪く蠕動《ぜんどう》していて、それには海盤車《ひとで》の化物《ばけもの》とでも思われるような生気があった。
 しかし、法水は振り向きもせず、奥の室の扉《ドア》を開けた。
 その室には、前部の発射装置がそっくりそのままになっていて、その複雑な機械の影は、市街の夜景ででもあるように錯覚を起してくる。
 その前で、朝枝は茫《ぼ》んやりと、一つの鉢を瞶《みつ》めていた。
 その鉢は一本の紅いアマリリスだったが、そうしている朝枝を一瞥《いちべつ》したとき、なにかしら透き通ったような人間ばなれのしたものを法水は感じた。
 朝枝は水っぽい花模様の単衣《ひとえ》を着、薄赤《とき》色の兵児《へこ》帯を垂らしているが、細面の頸の長い十六の娘で、その四肢《てあし》は、佝僂《せむし》のそれのように萎え細っていた。
 全体が腺病的で神経的で、なにかの童話にある王女のように、花の雨でも降れば消え失せるのではないかと危ぶまれる――それほどに、朝枝は痛々しく蝋のような皮膚《はだ》色をしていたが、一方にはまた、烈しい精神的な不気味なものがあって、すべてが混血児という、人種の疾病《しっぺい》がもたらせたのではないかとも思われるのだった。
 ところが、入ってくるウルリーケを見ると、長い睫毛《まつげ》の下がキラリと光った。
 彼女は母に、とげとげしい言葉を吐いたのである。
「お母さん、貴女《あなた》はこのアマリリスを、どうしてここへ持っていらっしゃったのです。ああ判《わか》った。貴女は私を殺そうとお考えになっているのでしょう。
 だってこの花のことは、ようく御存知のはずなんですもの……私をまた床に就かせようとしたって……ああ、きっと、そうにちがいありませんわ」
 朝枝のヒステリックな態度には、何かひたむきな神々しいような怖ろしさがあって、それには何より、法水が面喰らってしまった。
 すると、瞬間ウルリーケの顔には狼狽《ろうばい》したようなものが現われたが、彼女は動ぜず、静かに云い返した。
「まあ朝枝さん、私が持って来たのですって、……いったい貴女は、何を云うのです? お母さんは、貴女を癒《なお》してくれたこの花に、感謝こそすれ、なんで粗略に扱うものですか。
 サア家へ帰って、すぐ床にお入りなさい……貴女はまだ、本当ではないのですよ」
 その思いもよらぬ奇異《ふしぎ》な場面にぶつかって、しばらく法水は、花と朝枝の顔を等分に見比べていたが、
「なんだか知りませんが、僕にこの花のことを聴かせていただけませんか」
「それは叔父さま、こうなのですわ」
 と朝枝は、法水の顔にちらついている、妙に急迫した表情も感ぜず語りはじめた。
「私は一月ほど前から、得体の知れない病いに罹《かか》りました。熱もなくただ瘠せ衰えてゆきまして、絶えずうつらうつらとしているのです。
 あとで聴きますと、医者は憂鬱病《メランコリア》の初期だとか何かの腺病だとか云ったそうですが、どんなに浴びるほど薬を嚥《の》んでも、私の身体からは日増しに力が失せてゆくのでした。そうして、だんだんと指の間が離れてゆくのが、朝夕目立ってゆくうちに、このアマリリスの蕾《つぼみ》が、ふっくらと膨《ふくら》んでまいりました。
 私はそれを見て、果敢《はか》ない望みをこの花にかけてみたのです。もし私が癒るようなら、蕾《つぼみ》をそれまで鎖ざしておいて下さいまし――と。
 ほんとうを云えば、力を出そうとして、血の気が上ったようなこの花の生々《いきいき》しさに、私、妬《ねた》みを感じたのでしたわ、ところが叔父さま、まあ不思議な事には、今にも開きそうなこの蕾が、五日たっても十日たっても、何日《いつ》になっても開こうとはしないのです。
 そうして、私の病いも、それと同時に薄皮を剥がすように癒ってゆきました。
 ところが、はじめて床を出た今朝、ふと気がついてみますと、この花が私の枕辺から消えているのです。それが叔父さま、いつのまにか『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』に来ていて、このとおりパッと開いているのではございませんか」
 その不思議なアマリリスが、赤い舌のような花瓣をダラリと垂らしているところは、何かもの云いたげであった。
 そして、そのいいしれぬ神秘と詩味は、蒼味の強い童話本の挿画《さしえ》のようであったが、今朝の惨劇に時を同じくして起ったこの奇蹟には、なにか類似というよりも、底ひそかに通っている整数があるのではないかと思われた。
 法水は、次々と現われてくる謎に混乱してしまったが、まもなく一同を去らしめて、この室の調査を開始した。
 そして、最初にまず、艇長の遺品《かたみ》二点を取り上げた。

      二、ニーベルンゲン譚詩《リード》

 作者はここで、艇内にあらわれた「ニーベルンゲン譚詩《リード》」について語らねばならない。
 といって、この独逸《ゲルマン》大古典のことを考証的に云々するのではない。
「ヒルデブランドの歌」につづいて、「英雄之書《ヘルデン・ブッフ》」、「グドルン詩篇」などとともに、じつに民族の滅びざるかぎり、不朽の古典なのであるから……。
 この物語が、おそらく十二世紀末に編まれたであろうということは、篇中に天主教の弥撒《みさ》などがあり、それが一貫して、北方異教精神と不思議な結婚をしているのでも分る。もともと素材はスカンディナヴィア神話にあって、ヴィベルンゲンの伝説《ザガ》、ニーベルンゲン伝説《ザガ》などと、いくつかの抜萃集成にほかならない。
 ところが、ワグナーに編まれて尨大な楽劇になると、はじめて新たな、生々とした息吹が吹きこまれてきた。
 それは、三部楽劇として作った、「|ニーベルンゲンの指環《デア・リング・デス・ニーベルンゲン》」のなかで、ワグナーが、この古話の構想を寓話的に解釈せよと、叫んだからだ。すなわち、倫理観を述べ、人生観をあらわし、社会組織を批判して、おのれの理想をこの大曲中に示したのであるから……。
 まさに作者も、ワグナーに、模倣追随をあえてしてまで、この一篇を編みあげようとするのだ。
 しかし、これには、権力を代表する指環もなければ、法と虚喝の大神《ヴォータン》も、愛のジーグフリードも、また、英雄の霊を戦場からはこぶ戦女《ワルキューレ》もいない。事実この物語には、われわれの知らぬ、世界に活躍するものは一つとしてないのである。
 けれども、篇中のどこかには、奇怪な矮人《わいじん》があらわれる、鳥がいる。鍛冶《かじ》の音楽、呪い、運命、憎悪、魔法の兜《かぶと》がある。時とすると、|森の囁き《ワルド・ワーベン》が奏でられ、また、「怖れを知らぬジーグフリード」の導調《ライトモチフ》につれて、うつくしい勇士の面影が、緑の野におどる陽のようにあらわされる。
 しかしそれは、篇中に微妙な影を投げ、いとも不思議な変容となって描かれているのだ。手操りあう運命の糸――それは、いつの世にも同じきものである。ときに応じ、情勢につれて、自由に変形され展開されるとはいえ、絶えず、底をゆく無音の旋律はおなじである。
 読者諸君も、つぎの概説中にある黒字の個所に御留意くだされば、けっして、古典の香気に酔いしれてしまうことはないであろう。かえって、物語を綴り縫う謎の一つ一つに、一脈の冷視をそそぐことができると信ずるのである。

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 ラインの河畔ウオルムスの城に、クリームヒルトという、容色絶美の姫君が住んでいた。ブルガンディーの王、グンテルの妹である。また、その下流低地にも、一つの城があって、そこには、ジーグフリードと呼ぶ抜群の勇士がいたのである。
 ジーグフリードは、ニーベルンゲン族と闘って巨宝を獲たのであるが、それ以前、一匹の巨竜を殺したため、殺竜騎士《ドラゴンスレーヤー》の綽名《あだな》があった。
 しかし彼は[#「しかし彼は」は太字]、そのとき泉にしたたる巨竜の血に浴したので[#「そのとき泉にしたたる巨竜の血に浴したので」は太字]、|菩提樹[#「菩提樹」は太字]《リンデン》の葉が落ちた肩一ヶ所のほかは[#「の葉が落ちた肩一ヶ所のほかは」は太字]、全身剣をはねかえす[#「全身剣をはねかえす」は太字]|鋼鉄[#「鋼鉄」は太字]《はがね》のような硬さになってしまったのである[#「のような硬さになってしまったのである」は太字]。
 ところが、旅人の口の端を伝わり伝わりして、クリームヒルトの噂が、ジーグフリードの耳に達した。そこでジーグフリードは、ひそかに見ぬ
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