た。
 それは水上|噸《トン》数約四百噸ばかりの沿岸艇で、橙《オレンジ》色に染め変えられた美しい船体は、なにか彩色でもした烏賊《いか》の甲のように見えたが、潜望鏡と司令塔以外のものはいっさい取り払われて、船首に近い三|吋《インチ》大仰角速射砲の跡には、小さな艙蓋《ハッチ》が一つ作られていた。
 しかし、そこは断崖の下で、そこへ行くには、岩を切り割った、二つの路を迂廻して行かねばならないのだが、朝枝と外人たちはそこで別れて、いよいよウルリーケと四人の盲人が「鷹の城」に乗り込むことになった。
 海底遊覧船「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」――。しかも、前途にあたって隠密の手があるのも知らず、ふたたび彼らは、回想を新たにしようと濃緑の海底深くに沈んで行くのだった。
 司令塔の艙蓋《ハッチ》から鉄梯子を下りると、そこには、クルップ式の潜望鏡と潜水操舵器があって、右手が機関室、左手は二つの区画に分れていて、手前のは、以前士官室だった底を硝子《ガラス》張りにした観覧室、またその奥は前《さき》の発射管室で、そこに艇長の遺品が並べられてあった。
 しかし前方の観覧室には、とうていこの世ならぬ異様な光が漲《みなぎ》っていた。
 それは、蒼味を帯びた透明な深さであるが、水面に蜒《うね》りが立つと、たぶんさまざまな屈折が影響するのであろうか、その光明には奇異《ふしぎ》な変化が起ってゆくのだった。
 一度は金色《こんじき》の飛沫《しぶき》が、室《へや》いっぱいに飛び散ったかと思うと、次の瞬間、それが濃緑の深みに落ち、その中に蜒《うね》りの影が陽炎《かげろう》のようにのたくって、その燦《きら》びやかさ美しさといったら、まず何にたとえようもないのである。
 けれども、その――三稜鏡《プリズム》の函《はこ》に入ったような光明の乱舞が、四人の盲人には、いっこう感知できないのも道理であるが、いつかの日艇長と死生を共にしたこの室《へや》の想い出は、塗料の匂いその他になにかと繰り出されて、それにシュテッヘ大尉の事件を耳にした今となっては、あの不思議な力の蠢動《しゅんどう》がしみじみと感ぜられ、はては襲いかかってくる恐怖を、どう制しようもなかったのであった。
 そして、それがつのりきった結果であろうか、四人の集めた額が離れると、八住は手さぐりに入口の壁際に行って、そこにある食器棚から、一つの鍵を取り出してきた。
 まもなく、その鍵は二つの扉《ドア》に当てがわれたが、すむと再び旧《もと》の場所に戻して、八住は発艇の合図をした。
 艇がしばらく進むうちに、潜航の電鈴が鳴り、検圧計に赤い電灯《あかり》が点いた。そして機械全体が呻吟したような唸《うな》りを立てると、同時に、足もとの水槽に入り込む水の音が、ガバガバと響いた。
 水深五|米《メートル》、十|米《メートル》――一瞬間泡がおさまると、そこはまさに月夜の美しさだった。
 キラキラ光る無数の水泡が、音符のように立ち上っていって、濃碧のどこかに動いている紅い映えが、しだいに薄れ黝《くろ》ずんでゆく。
 すると、間遠い魚の影が、ひらりと尾|鰭《ひれ》を翻《ひるがえ》して、滑《す》べらかな鏡の上には、泡一筋だけが残り、それが花瓣のような優《しと》やかさで崩れゆくのだった。
 水中にも、地上と同じような匂いが、限りなく漂っていて、こんもりと茂った真昆布《まこんぶ》の葉は、すべて宝石《たま》のような輪蟲《りんちゅう》の滴を垂らし、吾々《われわれ》はその森の姿を、いちいち数え上げることができるのだ。
 そしてその中を、銀色に光るかます[#「かます」に傍点]の群が、軍兵のような行列を作ったり、鯖が玉蟲色に輝いたりなどして、それが前方に薄れ消えるときに彼らは星を降り撒《ま》き、あるいは甘鯛《あまだい》が、えごのり[#「えごのり」に傍点]の捲毛に戯れたりして、ときおり海草の葉がゆらめく陰影《かげり》の下には、大|蝦《えび》のみごとな装甲などが見られるのであるが、その夢の蠱惑《こわく》は、しだいに水深が重なるとともに薄らいでいった。
 もはや三十|米《メートル》近くになると、軟体動物の滑らかな皮膚が、何かの膀胱のように見えたり、海草は紫ばんだ脱腸を垂らし、緑の水苔で美しく装われている暗礁も、まるで、象皮腫か、皺ばんだ瘰癧《るいれき》のように思われるのであるが、そうして色がしだいに淡く、視野がようやく闇に鎖《とざ》されようとしたとき、ふと異様な物音を、ウルリーケは隣室に聴いたのである。
 と、すぐさま、合いの扉《ドア》を叩く犬射の声がした。
 が、生憎《あいにく》とそれは、機関の響きで妨げられたけれど、絶えずその物音は狂喚と入れ交じって、隣室からひっきりなしに響いてくるのだ。
 やがて、鎖《とざ》された扉が開かれると、その隙間から、硝子《ガラス》の上に横たわっている真黒な人影が見えた。
 が、次の瞬間、ウルリーケはハッと立ち竦《すく》んでしまったのである。
 そこには、彼女の夫八住衡吉が三人の盲人の間に打ち倒れていて、ほとばしり出る真紅の流れの糸を、縞鯛がもの奇《めず》らしげに追うているではないか。
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    第二編 三重の密室《みっしつ》


      一、アマリリスの奇蹟

「助《たす》からんね支倉《はぜくら》君、たぶん海精《シレエヌ》の魅惑かも知らんが、こりゃまったく耐《たま》らない事件だぜ。だって、考えて見給え。海、装甲、扉《ドア》――と、こりゃ三重の密室だ」
 法水《のりみず》麟太郎《りんたろう》と支倉検事が「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」を訪れたのは、かれこれ午《ひる》を廻って二時に近かったが、陽盛りのその頃は、漁具の鹹気《しおけ》がぷんぷん匂ってきて、巌《いわ》は錆色に照りつけられていた。
 ウルリーケとともに艙蓋《ハッチ》を下りるまでにはだいたいの聴取は終っていたが、何より海底という、あり得べくもない自然の舞台と謎の味が、彼をまったく困惑させてしまった。
 のみならず、それはかつていかなる事件においても現われたことのない、驚くべき特質を具えていたのである。
 と云うのは、現場《げんじょう》が扉《ドア》と鍵で閉《とざ》されていたにもかかわらず、艇内をくまなく探しても、八住を刺した凶器が発見されなかったのである。しかも周囲は厚い装甲で包まれ、その外側が海底であるとすれば、とりもなおさず、現場は三重の密室ではないか。
 ウルリーケはこまごま当時の情況を述べたが、それはすこぶる機宜《きぎ》を得た処置だった。
 彼女は、犬射復六の手で扉《ドア》が開かれると、すぐ前方の扉がまだ開かれていないのを確かめた。そうしてから、機関部員の手で、自分をはじめ三人の盲人にも身体検査を行い、なおかつ、その時刻が、五時三分であった事までも述べたが、ウルリーケはそれに言葉を添えて、
「それに、まだ訝《いぶか》しく思われる事がございまして。と申しますのは、まだ扉《ドア》が開かれないうちでしたけど、たしかにヴィデさんの声で、どうしてうろうろしているんだ。君たちは何を隠そうとしているのか――と妙に落着いたような、冷たい明瞭《はっき》りした声で云うのが、聴えたのでございます。
 ですから、あの室に入って夫の屍体を一瞥《いちべつ》すると同時に、私の眼は、まるで約束されたもののようにヴィデさんに向けられました。
 すると、あの方だけは、椅子の上で落着きすましていて、まるでその態度は、当然起るべきものが起ったとでも云いたいようで、とにかくヴィデさんだけには、夫の変死がなんの感動も与えなかったらしいのです。
 まったくあの方には、底知れない不思議なものがあるのですわ」
 とはいえウルリーケとて同じことで、夫の死に慟哭《どうこく》するようなそぶりは、微塵《みじん》も見られなかったのであるが、まもなく法水は、その理由を知ることができた。
 現場の扉《ドア》は、鉄板のみで作られた頑丈な二重|扉《ドア》で、その外側には鍵孔《かぎあな》がなかった。というのは、万が一クローリン瓦斯《ガス》が発生した際を慮《おもんぱか》ったからで、むろん開閉は内側からされるようになっていた。
 そして、扉が開かれると、そこに漲《みなぎ》っている五彩の陽炎《かげろう》からは眩《くら》まんばかりの感覚をうけ、すでに彼には現場などという意識がなかった。
 そのせいか、眼前に横たわっている八住の死体を見ても、色電燈で照し出された惨虐人形芝居《グランギニョール》の舞台としか思われず、わけてもその染められた髪には、老|女形《おやま》の口紅とでも云いたい感じがして、この多彩な場面をいっそうドギついたものに見せていた。
 ところがその時、死体とは反対の側に、一人の盲人が佇《たたず》んでいるのに気がついた。
 それは、詩人の犬射復六だったが、そのおり屍体に何を認めたのか、法水は振り向きざま犬射に訊ねた。
 と云うのは、なんともいえぬ薄気味悪い事だが、すでに死後十時間近く経過していて、傷口は厚い血栓で覆われているにもかかわらず、現在そこからは、ドス黒く死んだ血が滾々《こんこん》と流れ出ているのである。
 その瞬間、この室の空気は、寒々としたものになってしまった。
 犬射は美しい髪を揺すり上げて、割合平然と答えた。
「なに、私なら、今しがたここへ来たばかりなんですよ。艇員の方に手を引かれて――さあ五分も経ちましたかな。
 それに、用というのが、実は向うの室にありまして、御承知のとおり、乗り込むとすぐこの騒ぎだったものですから、てんで艇長の遺品《かたみ》には、手を触れる暇さえなかったのです。
 なに、私が死体を動かしたのではないかって。ああほんとうに、位置が変っているのですか……ほんとうに死体が……」
 と犬射の顔色はみるみる蒼白に変っていって、なにか心中の幻が、具象化されたのではないかと思われた。
 その流血は、ほんの一、二分前から始まったらしく、硝子《ガラス》の上を斜めの糸がすういと引いているにすぎなかった。けれども、死体の位置が異《ちが》ったという事は、以前の流血の跡に対照すると、そこに判然たるものが印されているのだった。
 最初仰向けだったものを俯向《うつむ》けたために、出血が着衣の裾を伝わって、身体なりに流れたからである。しかも傷口には、厚い血栓がこびりついていて、とうてい屍体の向きを変えたくらいで、破壊されるものではなかったし、また、気動一つ看過さないという盲人の感覚をくぐって、知られず、この室に侵入するという事も不可能に違いないのだった。
 してみると、死体を動かしたのは当の犬射復六か、それとも――となると、再びそこに「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」遭難の夜が想起されてくるのだ。
「慄《ぞ》っとするね。十時間もたった屍体から、血が流れるなんて……。だが法水君、結局犯人の意志が、あれに示されているのではないだろうかね」
 そう云って、検事が指差したところを見ると、その前後二様の流血で作《な》された形が、なんとなく卍《まんじ》に似ていて、そこに真紅の表章が表われているように思われたからである。
 この暗い神秘的な事件の蔭には、その潤色から云っても、迷信深い犯人の見栄を欠いてはならないのではないか。
 しかし、法水は無言のまま死体に眼を落した。
 八住衡吉は、肩章のついたダブダブの制服を着、暑さに釦《ボタン》を外していたが、顔にはほとんど表情がなかった。
 強直はすでに全身に発していて、右手を胸のあたりで酷《むご》たらしげに握りしめ、右膝を立てたところは俯伏しているせいか、延ばした左足が太い尾のように見えて、それには、巨《おお》きな爬蟲の姿が連想されてくる。
 創《きず》は心臓のいくぶん上方で、おそらく上行大動脈を切断しているものと思われたが、円形の何か金属らしい、径一|糎《センチ》ほどの刺傷だった。
 そして、その一帯には、砕けた検圧計の水銀が一面に飛散っていて、それを見ると、最初一撃を喰らうと同時に、検圧計を掴んだのが、ほとんど反射的だったらしい。そして、握ったままくるりと一廻転して、
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