スめきも、地上にありとあらゆるいっさいのものが、停止したように思われた。
しかし、二人の面前では、その朝何事も起らなかったかのように見えたが、なお念のために、家族の寝間を覗き歩くうち、ふと朝枝の室の扉《ドア》が、開かれているのに気がついた。
内部《なか》を覗くと、瞬間二人の心臓が凍りついてしまった。
そこの寝台《ベッド》の上には、蝋色をした朝枝の身体が、呼吸もなく、長々と横たわっていたからである。
三、海底の花園
しかし、朝枝はまもなく蘇生したが、それは酷たらしくも、頸《くび》を絞められて、窒息していたのである。
しかも、なお驚くべき事には、その扉《ドア》は、前夜の就寝の際に法水が鍵を下して、いまもその鍵は彼の手の中に固く握られているのであるが、それにもかかわらず、あの不思議な風は音もなく通り過ぎてしまった。
そうして、目されていたヴィデが襲われず、朝枝が犠牲になった事は、法水の観念に一つの転機をもたらした。
彼はウルリーケを招いて、さっそくに切り出したものがあった。
「またまた、菩提樹《リンデン》の葉と十字形《クロスレット》なんですが、僕は今になって、ようやく貴女の真意を知ることができました。そして、今まではシュテッヘという名で怖れられていた悪鬼に、いよいよ改名の機が迫ったのです。ねえ夫人《おくさん》、現に、今も朝枝の頸を絞めたものは、シュテッヘではなく、フォン・エッセン艇長だったのです」
「何をおっしゃるんです」
とウルリーケは屹然《きっ》と法水を見据えたが、検事はその一言で、木偶《でく》のように硬くなってしまった――なぜなら、彼の云うのがもし真実だとすれば、あれほど厳然たる艇長の死が、覆《くつがえ》されねばならないからである。
法水は、躊《ためら》わず云いつづけた。
「ところで、いつぞやは、それと快走艇《ヨット》旗との符合に、僕らはさんざん悩まされたものです。しかし、それも今となると、偶然にしては、あまりに念入りな悪戯でしたね。貴女がそうして、ジーグフリードの弱点を暗示した理由には、ただ単に、そういっただけの意味しかなかったのです。つまり、艇長には、固有の発作があったので、たしか僕は、それが間歇《かんけつ》跛行《はこう》症だと思うのですが……」
その刹那、ウルリーケの顔が、ビリリと痙攣して、細巻が、華奢《きゃしゃ》な指の間から、滑り落ちた。
「で、最初にそれが、艇長の発作を死と誤らせました。なぜなら、元来その病は、上肢《て》にも下肢《あし》にも、どちらにも片側だけに起るもので、体温は死温に等しくなり、また、脈は血管硬化のために、触れても感じないというほど、微弱になってしまうのです。
艇長が、その発作を利用して、死を装ったことは、あの場合すこぶる賢明な策だったでしょうが、そうして跛行《びっこ》を引きつつ発射管室の方に歩んで行ったのを、僕らは、跛行者《びっこ》のシュテッヘと早合点してしまったのです。
またそうなると、あの暗黒世界の中に、しんしんと光が差し込んでくるのです。
ふと僕は、その後の艇長に、世にも奇異《ふしぎ》な生活を描き出すことができました。まったく結果だけを見たら、それが、あのまたとない一人三役――ねえ夫人《おくさん》、貴女はたぶん、それを御存知ないのでしょうね」
「いいえ、その病だけは、いかにも真実でも、……現在のテオバルトは違いますわ。あの維納《ウイン》の鉄仮面――ヘルマンスコーゲルの丘に幽閉されている囚人が、実はそうなのでございます」
とウルリーケは必死に叫んで、内心の秘密を吐き尽してしまったかに思われた。が、法水は優しげに首を振り、衣袋《ポケット》から封筒のようなものを取り出した。
その刹那、ウルリーケの全身からは、感覚がことごとく失せ切って、ただうっとりと、夢見るように法水の朗読を聴き入っていた――その内容というのは、はたして何であったろうか。
――そうして守衛長が私を案内して、いくつか数限りない望楼の階段を上って行きました。
それも、私が英人医師であるからでしょうが、やがて階段が尽きると、廊下の突き当りには美しい室《へや》がありました。
そして、その中には、見るも異風な姿をした人物が、一人ニョッキリと突っ立っているのでした。その人物は、フォールスタッフの道化面を冠っていて、身長は六|呎《フィート》以上、着衣はやはり、我々と異ならないものを、身につけておりました。
ところが、腰を見ると、そこには頑丈な鎖輪《ケッテンリング》が結びつけられてあるのです。
もちろん会話などは、片言《かたこと》一つ語るのを許されません。
それから、診察を始めたのでしたが、それには、バスチーユの鉄仮面を見た、マルソラン医師が憶い出されたように、やはり最初は、面の唇から突き出された舌を見たのでした。
そうして、全身の診察が終ると、再び叔父のフォン・ビューローの許に連れ戻されましたが、その時不用意にも、私は患者の姓名を訊ねてしまったのです。
すると叔父は、卓子《テーブル》をガンと叩いて、「お前は、あの扉《ドア》の合鍵でも欲しいのか」と呶鳴《どな》りましたが、まもなく顔色を柔らげて、「ではパット、あの馬鹿者《イディオット》については、これだけのことを云っておこう。さる侯爵《マルキス》だ――とね」と言葉少なに云うのでした。
しかし、お訊ねにかかわる羅針盤の文身《いれずみ》は、隈《くま》なく捜したのでしたが、ついに発見することなく終ってしまいました。
そこで私は、明白な結論を述べることができます――あの囚人は、たとえいかなる浮説に包まれていようと、絶対に、友、フォン・エッセン男爵ではない――と。
その書信は、ウルリーケの知人である、英人医師のバーシー・クライドから送られたものだが、かえって内容よりも、それがいかなる径路を経て、法水の手に入ったものか、検事は不審を覚えずにはいられなかった。
法水は、続いてウルリーケに向い、それを掘り出した、不思議な神経を明らかにした。
「実を云いますと、これを手に入れたのは、夢判断のおかげなのです。いつぞや『ニーベルンゲン譚詩《リード》』の中に、貴女は御自分の夢をお書きになりました。ところが、その夢の世界には、すでに無意識となった、一つの忌怖感が描かれているのです。
で、夢の象徴化変形化のことは御承知でしょうが、また、一つの言語一つの思想が、まるで洒落《しゃれ》のような形で現われることもあるのです。
そこで、菩提樹《リンデン》の葉がチューリップの上に落ちる――という一句を、僕は、チューリップすなわち Two Lips《テウ・リップ》(二つの唇)と解釈しました。つまり、何かの唇の中に、貴女は葉のように薄いものを差し込んで置いたからでしょう。それから、撫子《カーネーション》の垂れ下がるほど巨《おお》いなる瓣《はなびら》――というところは、第一、撫子《カーネーション》には肉化《インカーネーション》の意味もあり、また、巨きな瓣を取り去ろうとするがなし得ない――というところは、その肉化した瓣が、膨れるのを懼《おそ》れていたからなんです。
そこで、唇に何かを挟んで、それが膨れるのに懸念を感じるようなものと云えば、さしあたり艇長の油絵をさておいて、他に何がありましょうか。
夫人《おくさん》、貴女は画像の唇を、筋なりに切りさいて、その間にこの手紙を差し込んで置いたのです。そして、あの美しい唇が膨れて、顔の階調が破壊されるのを、貴女は何よりも、怖れていたのでした」
そうして語られる夢の蠱惑《こわく》は、ウルリーケの上で、しだいと強烈なものになっていったが、やがて、その悩ましさに耐えやらず叫んだ。
「貴方は、私が覆うていたものを、残らず剥ぎ取っておしまいになりましたわね。それでは、私をテオバルトに遇わせて下さいましな。法水さん、それにはいったい、何処へ参ったらよろしいのでしょうか」
「ともかく、この場所においで下さい。いま、すぐに連れてまいりましょう」
と異様な言葉を残して、法水は隣室に去ったが、やがて連れて来たその人を見ると、二人はアッと叫んで棒立ちになってしまった――それが人もあろうに、ヴィデだったからである。
しかし法水は、力を罩《こ》めて彼に云った。
「フォン・エッセン男爵、もう宜《い》い加減に、その黒眼鏡を除《はず》されたら、いかがですかな。貴方が、遭難の夜ヴィデを殺したという事も、三人に木精《メチール》をあてがって盲目《めくら》にし、それなりヴィデになり済ましたという事も、また、妻を奪った八住を殺したばかりでなく、娘の朝枝までも手にかけようとした事も――ハハハハ、あのまんまと仕組んだ屍体消失の仕掛《からくり》でさえ、僕の眼だけは、あざむくことができなかったのです。貴方が、髪を洗って、傷や腫物《はれもの》の跡を埋め、またしばらく、過マンガン酸加里で洗面さえしなければ、再び旧《もと》の美しい、アドリアチックの英雄に戻るでしょうからね」
「な、なにを云う……」
とヴィデはドギマギしながらも、嘲るように、
「僕がフォン・エッセンだとは――莫迦《ばか》らしい、いったいどこを押せばそんな音が出るのです。すると貴方は、八住を刺した兇器を、僕がどこへ隠したと云われますか」
「なにも、あの流動体には、隠す必要なんてないじゃありませんか。しばらく貴方は、それを傷口の中に、隠しておいたのでしょう。そして、後になって、朝枝と二人の盲人といっしょに再び艇内に入ると、そこで眼が見える貴方は、屍体を俯向《うつむ》けにしました。すると、あの流血と同時に、兇器はしだいに凝血の間を縫って、やがてかなりの後に流れ出ました。ところが、その附近には、砕けた検圧計の水銀が飛び散っていた……」
「水銀……」
検事が思わず反問すると、法水は、その魔法のような兇器を明らかにした。
「そうなんだ支倉君、まさにその水銀なんだよ。ところで、潜航艇に使う液体空気の中へ、水銀を漬けておくと、それが飴状になるので、何かの先に丸い槍形を作り付けることができるのだ。そうして、さらに冷却すると、いわゆる水銀槌《マーキュリース・ハムマー》と呼ばれて、銀色をした鋼《はがね》のような硬度に変ってしまう。だから、それが八住の体内で、体温のために軟らかくなるから、当然先端が丸くなって、創道の両端が異なるという、不可解な兇器が聯想されてくるのだ。だが支倉君、君はあの時八住が、どうして悲鳴を上げなかったか、理由を知っているかね」
と云って、検事が再び混乱するのを見て、法水は事務的に説きだしたが、
「いや、悲鳴を上げなかったというよりも、叫んでも聴えなかったと訂正しておこう。やはり、フォン・エッセン別名《エーリアス》ヴィデ氏は、遭難の夜と同じく、間歇跛行症を利用したのだ。その時発作が起ったので、八住と犬射の間に割り込んだから、はしなくその手に触れた、犬射が驚かされてしまった。そして夫人に急を告げるやらの騒響《ざわめき》の間に、悠々と八住を料理してしまったんだ」
と云って、ヴィデに憫れむような眼差を馳せた。
「ああ|偶像の黄昏《ゲッツェン・デムメルング》――僕は貴方を見て、一つの生きた人間の詩を感じましたよ。生命に対する執着・流浪愛憎。ですが男爵、ニイチェの中にこんな言葉がありましたね――時の選択を誤れる死は、怯惰《きょうだ》な死である――と」
「よろしい、僕は誇らしげな死につきましょう」
とヴィデは、彼の眼前――闇中にそそり立っている超人の姿が、かくも高いのに嘆息したが、
「あの悪鬼フォン・エッセンを捕えるか、それとも、自分の人生を修正するかです。僕は今夜一人で、『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』の中に入りますよ」
と云い捨てて、この室《へや》を出て行ったが、その足取りは、盲人《めくら》にしてはたしか過ぎると思われるほどだった。
ところがその翌日、早朝乗組員の一人が、背後から心臓を貫かれて、紅《あけ》に染まっているヴィデの屍体を発見した。
法水が赴いた頃には、ヴィデの死体は陸《おか
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