tに揚げられていた。朝を過ぎた太陽は、屍体の覆いに、キラキラする陽炎《かげろう》を立てていたが、屍体は全身に、紅い斑点が浮上がっていて、法水の眼を、責めるような意味で刺戟してくる。
彼は、眼前の緑の海はつねに呼吸するとも、この怖ろしい事件には、永久結末がこないと思われた。
そして、いよいよ決心の臍《ほぞ》をかためてその一日を、単身「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」のなかで過すことにした。
法水は潜望鏡をながめたり、あるいは、潜水服がいくつとなく吊されている一画を調べたりした。
艙蓋《ハッチ》の下の室《へや》から機関室に行き、それから以前八住が殺された客室に入って行ったが、そうしているのは、ちょうど知られない世界に入ってでもゆくかのようで、妙に気味悪げな不安にかられてくるのだった。ところが、その室を出ようとしたとき、彼はその把手《ノッブ》を握りしめたまま、唖然と立ち尽してしまった。
いっこうに艙蓋《ハッチ》の音を聴かなかったにもかかわらず、いつのまに鍵が下ろされたものか、その扉《ドア》は、押せども引けども開かないのである。
すると、突然艇全体を揺《ゆす》り上げるような激動がおこって、みるみる「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」は海底に沈みはじめた。
いったん法水は、自分の神経が病的な昂揚状態に入ったかと疑った。が、それは夢ではなかった。彼は、硝子越しに立ちあがる水泡を見ながら、刻々死の底に沈みゆく自分を意識していた。
そして、約二〇|米《メートル》を沈下したと思われた頃、艇は横様に揺らいで航行しはじめた。
眼前の海底では、無数の斧魚《ハチェット・フィッシュ》が、暗い池のような水の中で光り、またその燐骨が、櫛のような形で透いて見えるのだが、こうして艇長フォン・エッセンの、烟《けむり》のような手に導かれてゆくうちに、彼はあちこちと自分の死の床を考えるようになった。ところが突然一つの考えが閃《ひらめ》いて、彼の心は明るく照し出された。
すると、法水は食器棚の中から、取り出した水を鍵孔に注ぎ込み、その中に、氷と食塩で作った寒剤を加えたが、そうしてややしばらくするうちに、鍵金の外れる音がして扉《ドア》が開いた。
それは、あの悪鬼の神謀――つまり、水が氷に変る際の、容積の膨脹を利用して、鍵金の尾錠《びじょう》を下から押し上げたからである。
しかし、艙蓋《ハッチ》の下に出ると、たちまちその手が潜水操舵器を掴んで、「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」は、けたたましく唸《うな》りながら迂回を始めたが、やがて防堤下の岩壁が、前方に透かし見えるところまで来ると、今度は舵《かじ》を操って、それと並行に走らせた。
すると、不思議な事には、少し行くうちに、艇がみるみる水面に浮び上がってゆくのだったが、まもなく硝子の壁に、碧《あお》い陽炎《かげろう》が揺らぎはじめた――艇長フォン・エッセンは、なぜ「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」を水面に浮き上がらせたのであろうか。
ところが、艇を出ると、法水は、この事件が終った旨を一同に報せた。
「ところで、あの魔法のような隠身術《おんしんじゅつ》も、底を割れば、たかがこの白い帯一つにすぎなかったのですよ」
検事とウルリーケを伴って、艇内に入ると、法水は、潜水服が吊されている一画を示した。
いずれも、胴着とズボンの間が、前の方だけ少し離れていて、そこから白い、大|帯革《バンド》の裏が見えた。
「つまり艇長はいつも、この中に隠れていたのでしたが、その以前にこの帯なりの隠し彫りを、下腹一面に施したことを忘れてはならないのです。つまり、日頃は見えないのですが、酒を嚥《の》むとか湯に入るかして、全身が紅ばんでくると、それまで見えなかった白い隠し彫りが現われてくるのです。それに、この薄暗い一画では、皮膚の色がさだかではないのですから、永らく僕らは、この白い帯裏《ベルト》の符号にあざむかれてきました。そして、あの悪鬼は、人影がなくなるまでここに隠れていて誰もいなくなると、今度は、潜望鏡を利用して外に脱け出ていたのです。さあ、夫人《おくさん》、機関室の扉《ドア》を開いて……」
と云われて、胸をときめかしたウルリーケが、扉《ドア》を開いたとき、咄嗟の驚愕に彼女はふらふらと蹌《よろめ》いた。
そこには、梁骨に紐を吊して、ふんわりとした振子のようなものが、揺れていた。ああ、なんとこの事件の艇長フォン・エッセンはウルリーケの一人娘朝枝だったのである。
法水は、波打つウルリーケの肩に、やさしげな手を置いて、
「しかし、どうして僕が、朝枝を犯人と知ったでしょうか。それはほかならぬ、アマリリスの鉢だったのです。
だいたい、健全者の夢は妄想的であり、神経病者の夢は、反対に、健全な内容を持っていると云われるのですが、もし両者の醒と夢が一致したとすれば、それには、一つの共通した要素があると云えましょう。それで、貴女の夢と、神経病者朝枝の偏執とが一致したのですが、あの、蕾《つぼみ》が開かずにいてくれたら――という願望は、つまり云うと、瓣《はなびら》がダラリと垂れる形で、油絵の中の、唇に懼れられていたそれが当るのです。もちろん朝枝も、いつのまにか、例の秘密場所を嗅ぎつけたのですが、しかしどうしてそれが、かくも怖ろしい惨劇を生んだのでしょう。
貴女が艇長を思慕する声は、同様に朝枝も唆《そそ》って、思春期の憧れを、艇長に向けていたのですがいよいよあの手紙を見るに及んで、はしなく心の中に、病的なものが立ち罩《こ》めてゆきました。と云うのは、母と競《せ》り合い、陥し入れてまでも、幻の彼を占めようとしたからです。
夢の充実――それが八住を殺し、母である貴女を、拭いのつかない危地に陥し込もうとしたのでした。
しかし、あのアマリリスの奇蹟は、父親のひたむきな愛の中から生れ出たのですよ。
八住は毎夜|払暁《あけがた》になると、不自由な身体を推してまでも花市に行って、蕾のアマリリスを買っては、取り換えていたのです。そして、前夜のものは、防堤から海の中に投げ入れていたのですが、そのとき心覚えに印したものが、貴女も知る、火術符号めいた形だったのです。ところが、悲しい事に、盲人が描く直線は、腕の廻転を軸に徐々とまがってゆくのですから、かえって八住は、毎日防堤との距離が遠くなるのを考えて、そこがあるいは、岬の角ではないかという、錯誤を起してしまったのです。
さあ夫人《おくさん》、『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』を潜航させて、防堤下の海底に行きましょう。
先刻《さっき》はそれを見て、朝枝が天上の愛に打たれたのですが、そこにはアマリリスが一面に咲き乱れていて、あの重たげな花瓣が、下波にこう囁いているのですよ――父の愛」
底本:「潜航艇「鷹の城」」現代教養文庫、社会思想社
1977(昭和52)年12月15日初版第1刷発行
底本の親本:「地中海」ラヂオ科学社
1938(昭和13)年9月
初出:「新青年」博文館
1935(昭和10)年4〜5月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※底本で使用されている「〔〕」はアクセント分解を表す括弧と重複しますので「【】」に改めました。
※「防堤に書かれた符号の図(fig43656_02.png)」中の、「次第に圖をなして」を、「次第に圓をなして」に改めました。この際、「小栗虫太郎全作品4 二十世紀鉄仮面」桃源社、1979(昭和54)年3月15日発行を参考にしました。
※「鷹の城」にかかるルビ、「ハビヒツブルク」と「ハビヒツブルグ」の混在は底本通りです。
入力:ロクス・ソルス
校正:A子
2007年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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