タに着くと、それを待ち兼ねたように切りだした。
「また、朝枝が何か喋《しゃべ》っていたようでしたわね。私、あの子が先刻《さっき》のアマリリスといい、なぜ肉親の母親を、そんなにまで憎しみたいのか理由が判りませんの。ですけど、八住が夜な夜な、きまって暁け方になると、『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』のある岬の角に、行くことだけは事実でございます。どうして、不自由な身体を押してまでも、八住はそうしなくてはならなかったのでしょうか。そこへ貴方は、毎夜防堤に来る男がある――とおっしゃいます。あああの夢が、だんだんと濃くなるではございませんか」
「なるほど――しかし、他人の夢にはおかまいなさらず、御自分の悪夢の方を、おっしゃって下さい。時偶《ときたま》は、トリエステの血のような夢を御覧になるでしょうな」
 と法水は、異様なものを仄《ほの》めかしたけれど、ウルリーケの顔は咄嗟《とっさ》に硬くなり、雲のような暈《ぼう》としたものが舞い下りてきた。
「悪夢……。すると貴方は、シュテッヘのことをおっしゃるんですのね。なるほど、あの方が失踪したおりには、テオバルトも一応は疑われました。現に維納《ウイン》の人は、そういった迷信的な解釈をいまだ棄てずにおります。いつまでもテオバルトのことを、『さまよえる和蘭《オランダ》人』のように考えていて、シュテッヘという悪魔を冒涜したために、七つの海を漂浪《さまよ》わねばならなくなったと信じているのです。でもまあ、あのまたとない友情の間に、どうしてそんなことが……いいえ判りましたわ。――貴方もやはり、シュテッヘの失踪について、テオバルトを疑っていらっしゃるのです。ようございますわ。もし、飽くまでもそういう夢をお捨てにならないのでしたら、一つ防堤に来る男というのを、シュテッヘに証明していただきましょうか」
「ところが夫人《おくさん》」
 と突然、法水に凄愴な気力が漲《みなぎ》って、
「ところがその、和蘭人を呪縛にくくりつけた悪魔――それは、とおの昔に死にました。いや、率直に云いましょう。『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』遭難の夜艇内で死んだのは、実を云うと艇長ではなく、その悪魔だったのです。そして、一方の和蘭人は、とうの昔トリエステで消え失せていて、それからも『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』を離れず、不思議な生存を続けておりました。どうでしょう夫人《おくさん》、貴女は、この比喩の意味がお判りですか」
 それは、妖術というようなものが実現されたとき、かくあらんと思われるような瞬間だった。検事もウルリーケも、同様化石したようになってしまって、よしや彼ら二人に、なお生命があったにしろ、眼はもう見えず、耳がはや聴えなくなったことは、確かであろう。
 やがて、ウルリーケの唇から、濡れた紙巻がポタリと落ちたが、依然その姿勢は変らなかった。
 法水は闇の海上を、怖ろしげに見やりながら、言葉を次いだ。
「つまり、ヴェネチア湾の海底で、生きながら消え失せたのは、シュテッヘではなく、フォン・エッセンだったのですよ。もっと明瞭《はっき》り云えば、シュテッヘをかくまった、UR《ウー・エル》―4号に、乗り込んだのを最後に、艇長の地上の生活は失われたことになりましょう。なぜなら、そのおりシュテッヘのために、艇長は生とも死ともつかぬ不思議な抹殺をされて、シュテッヘはその場から、フォン・エッセンになりすましました。ですから、その後貴女の閨《ねや》を訪れた人も、コマンドルスキーの海底でこの世を去った艇長も、同様シュテッヘでありまして、しかもなお奇異《ふしぎ》な事には、艇長はそのまま『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』の中で肉眼には見えぬ不可解な生活を続けていたのです。ですから、僕はいま、その漂浪《さまよ》える人を、防堤の上で証明しようとしているのですよ」
「そうしますと法水さん。その一人二役の意味を、童話以上のものに証明お出来になりまして」
 とウルリーケは嘲るように云ったが、その声にも、羞恥と憎悪の色を包み隠すことはできなかった。
「だいたい他人の姿に変るということは、小説では容易であっても、事実は全然不可能だろうと思われるのです。それでは、シュテッヘの顔を御存知なのでいらっしゃいますか。実は一枚、あの方の写真があるのですけど、それはまだ、お眼にかけてはおりません」
「ところが夫人《おくさん》、だいたいが、トリエステの早代りさえも映ろうという僕の眼に、そんなものは、てんから不必要なのですよ。たしかシュテッヘは、黒髪《ブルネット》で、細い唇よりの髭と、三角の顎髯《あごひげ》をつけておりましたね。そして、だいたいの眼鼻立ちや輪廓が、艇長と大差なかったのではありませんか」
「ああ、どうしてそれが」
 と咄嗟に度を失ってしまい、ウルリーケの胸が、弛んだ太鼓のように波打ちはじめた。
「ですけど、あのテオバルトが、どうしてシュテッヘなものですか。貴方は、私を淫らな不義者にして、いっそこんな恥辱をうけるのなら、私、この場で死んでしまいたい……」
「それでは、なぜ貴女は、艇長の写真を壁の小孔に当てて、掛けて置いたのです。僕はあの孔一つから、貴女の心の閨《ねや》を覗き込みましたよ」
 と新しい莨《たばこ》に火を点じて、法水は冷酷な追及を始めた。
「先刻《さっき》お部屋を見たときに、あれが湿板写真――つまり日本に例をとれば、明治初年に流行《はや》った硝子写真であることを知りました。
 御承知のとおり、硝子写真というものは、下に黒い地を置けばこそ、陽画に見えますが、もし日光なり光線なりを背後に置いた場合、今度は陰画に化けてしまうのです。
 その陰陽の転変……つまり、フォン・エッセンの金髪は黒髪に、唇の上や顎の尖りは、そのまま口髭に、あるいは顎髯となって、フォン・エッセンとシュテッヘは、その一瞬の間に移り変ってしまうのです。
 ですから、心が冷たく打ち沈んだときに、裏板を引くと、そこにはシュテッヘの顔が明るく輝き出すでしょう。
 すると、貴女は、悩ましそうに微笑むでしょうが、たちまちその秘密の歓楽にぞくぞくしてきて、恋の初めの微妙な感情を、心ゆくままに想い起すことでしょう。ですから、シュテッヘの写真を焼き捨てられても、僕の前には、いささかの効果もないのですよ」
「なに、シュテッヘの写真を焼き捨てた……僕は最初から、君の側を離れなかったのだが……」
 と今度は、検事が不審そうに異議を唱えると、法水は面白そうに笑いながら、
「だって、どう考えたって、紡車《つむぎぐるま》が独りでに廻るという道理はないだろう。それに、理由は後で云うが、艇長は或る奇異《ふしぎ》な迷信から、自分が『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』を離れる時刻を決めているんだ。あれには、君も僕も愕《ぎょ》っとなったが、しかしすぐ後で、僕は自分の愚かしさを嗤《わら》いたくなった。だいたい壁炉というものは、必要のない期間だけ、下の火炉と煙突との間を、仕切りで塞いでおくのだ。ところが、それを焼き捨てた人物は、煙が家の中に、立ち罩《こ》めるのを懼《おそ》れたからだろう。仕切りを開いて、煙突から空中に飛散させたのだ。だから、その後になって、霧が煙突の上を通るごとに、火炉の温い洞《ほら》との間に、当然還流が起らねばならない。そして、疾風のような気流が、畳扉の隙から、紡車に吹きつけるからだ」
 そう云って、法水は隣室におもむいたが、やがて戻って来たとき、手に台紙の燃え屑が握られていた。
 しかし、彼は鋭鋒を休めず、さらにウルリーケに向って続けた。
「もちろんそれだけでは、シュテッヘと貴女との関係が、完璧に証明されたとは云われません。しかし、『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』がトリエステを去った日の朝、貴女が、『ニーベルンゲン譚詩《リード》』に側線《アンダーライン》を引いて、Leaf《リーフ》(葉)と Crosslet《クロスレット》(十字形)という二つの文字を示されたでしょう。そのとき艇長は、なぜ暗い気持に襲われたのでしょうか。貴女が、かたわらの眼を怖れて秘かに指摘した、ジーグフリードの弱点というのは、そもそもいったい何事だったのでしょうか――下には舌のような葉なりの形で、ただ一つの致命点があり、その上の衣の上に、縫った十字形が重なっていると云えば。ところが夫人《おくさん》、貴女はそれによって艇長が属していた快走艇《ヨット》倶楽部《くらぶ》――王立カリンティアン倶楽部の三角旗を指摘したのでしたね。あの葉の形と三角旗、縫った十字形と点のみで出来た十字――貴女は、よもやこの一致を偶然の暗合とは云いますまいね。またそうなって、真実その艇長が、フォン・エッセンだとしたら、自分が自分を指摘されたところで、なにもそう、暗い気分に打ち沈むことはなかろうと思われます。まさしくそれが、貴女の心の暗い秘密――不倫の恋が打ち出した怖るべき犯罪だったのです」
 と、先刻《さっき》検事が嘲ったバドミントン叢書の「操艇術《ヨッチング》」を取り出してきたとき、その驚くべきほど劇的な一致が、今や動かしがたい事実となって現われた。
 そして、初めて検事に、|隠れ衣《タルンカッペ》を被せられたジーグフリード――の意味が明らかになったけれども、彼は眼前のウルリーケが、一枚ずつ衣を脱がされてゆくように感じた。
 彼女のスカートには、まだ男喰いの獣性が、垢臭く匂っているかに思われたが、それはとうに外されていて、今ではコルセットも下衣《したぎ》もなく、こうして彼女は、男の前で真裸にされたのである。
 続いて法水は、屠殺される、獣のように打ち挫《ひし》がれているウルリーケを見やりながら、鮮かに、トリエステと今日の事件との間に、聯字符を引いた。
「ところが、貴女も後になって気づかれたように、まったく死んだと信じられていた艇長が、その後も不可解極まる生存を続けていたのです。そして、『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』が岬の角に来ると同時に、夜な夜な上陸しては、防堤のあたりを彷徨《さまよ》いはじめました。ねえ夫人《おくさん》、艇長はその土の上に、一夜に一字ずつ毒殺者の名を記していったのですよ」
 とそこで、現実の恐怖が再びしんしんと舞い戻ってくるのだったが、さて彼が取り出したものを見ると、それには奇様な符号が、並んでいるにすぎなかった。
[#防堤に書かれた符号の図(fig43656_02.png)入る]
 しかし法水は、それに妖魔のような気息《いぶき》を吹き込んでいった。
「この一団の符号が、この真裏に当る、防堤の上に記されてあったのですが、一見したところでは、なんのことはない子供の悪戯《わるさ》としか見えないでしょう。しかし、計らずもこれに、僕の偏狂な知識が役立ちました。つまり、これを古代火術符号([#ここから割り注]以上の符号は、火薬の始祖コンスタンチン・アンクリッツェン以降、ヴェネチアの攻城火術家アレッサンドロ・カポビアンコあたりまで用いられていたもの[#ここで割り注終わり])に当ててゆくのですが、もちろんその知識は、外国の軍事専門家――しかも、極めて少数の人たちに限られていると云えましょう。でまず、最初の一つから、硝子粉《グラス・シュタウブ》、浸剤《インフュズム》、硫黄《ズルフル》、単寧《タンニン》、水銀《メルクル》、醋《オキゾス》、溶和剤《レゾルフェンチア》、黄斑粉《ディスティツェティン》、紅殻《アイゼンメンニンゲ》、樹脂《レギーナ》――と読んでいって結局《とどのつまり》その頭文字を連ねるのです。すると、そうしたものが、〔Gift−mo:rder〕《ギフト・メールダー》(毒殺者)となるではありませんか。ああ、毒殺者です。ところが、それ以下の十四字は、遺憾ながら読むことができないのですが、なんとなく字数の工合から察して、それには二人の名が、隠されているように思われるのです。もちろん、そのうちの一つは、すでに遂行されております――いつぞや遭難の夜に、悪人ながら友シュテッヘを毒殺した八住――とすると、もう一人の方は、夫人《おくさん》、いったいだれになるのでしょうか」
 と法水が、グイと抉《
前へ 次へ
全15ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング