bと夢から醒めたようになって、それまで、法水の夢想に追従しきっていた、おのれの愚かさを悟ったのである。
 法水も、その刺戟を隠し了せることはできなかったが、彼は、検事の言葉がなかったもののように、そのまま旧《もと》の語尾を繰り返した。
「ところが、その心理を前提として……、艇長とジーグフリード、ウルリーケとクリームヒルト――という符合に憑《とっ》つかれることだ。肝腎なニーベルンゲンの神秘|隠れ衣《タルンカッペ》が、そうした心理的な壁に、隔てられてしまうのだ。ねえ支倉君、『ニーベルンゲン譚詩《リード》』のこの事件における意義は、けっして後半の匈牙利《ハンガリー》王宮にはない、むしろ前半の、しかも氷島《イスランド》の中にあるんだ。つまり、ジーグフリードが姿を消すに用いる、魔法の|隠れ衣《タルンカッペ》がいつどこで使われたか……。また、その氷島《イスランド》というのが、この事件ではどこに当るか――だ。繰り返して云うがね、ウルリーケは絶対にクリームヒルトではなく、氷島《イスランド》の女王ブルンヒルトなんだ。しかも、この事件のブルンヒルトは、魔女のように悪狡《わるがし》こく、邪悪なスペードの女王なんだよ」
「ブルンヒルト……」
 と検事はとっさに反問したが、なぜか検事の説を否定するにもかかわらず、法水が、かたわらウルリーケを邪《よこし》まな存在に指摘する――その理由がてんで判らなかった。
 法水は、烟《けむり》を吐いて続けた。
「と云うのは、クリームヒルトなら、ただの人間の女にすぎないさ。ところが、ブルンヒルトとなると、その運命がさらに暗く宿命的で、彼女を繞《めぐ》るものは、みな狂気のような超自然の世界ばかりだ。最初焔の砦を消したジーグフリードを見て、その男々しさに秘かに胸をときめかした。ところが、そのジーグフリードは、|隠れ衣《タルンカッペ》で姿を消し、グンテル王の身代りとなった。支倉君、君はこの比喩の意味が判るかね」
「|隠れ衣《タルンカッペ》……」
 と、その一つの単語の鋭犀《ヴィヴィッド》なひびきに、検事は思わずも魅せられて、
「すると、その形容の意味からして、君は、維納《ウイン》の鉄仮面を云うのか。それとも、また一面にはシュテッヘ、艇長、今度の事件――と『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』の怪奇にも通じていると思うが……ああなるほど、いかにもブルンヒルトは、グンテル王の身代りに瞞《だま》されたんだ。その|隠れ衣《タルンカッペ》たるや、とりもなおさず、あの日誌じゃないかね。八住はその影に隠れて、ウルリーケを招き寄せた。しかも、重要な部分を破り棄てて、彼女が再起しようとする望みをへし折ってしまった。それが判ったとしたら、いかにもブルンヒルトはジーグフリードを殺しかねないだろう」
「ああ君には、どこまで手数が掛るんだろうね」
 と芝居がかった嘆息をしたが、ふと瞳を開き切って、彼はきっと聴き耳を立てはじめた。
 それは、潮の轟き海鳥の叫び声に入り交って先刻《さっき》検事が耳にしたと同じく、きれぎれにどこか隣室の、遠い端《はず》れから伝わって来るのであるが、時として跫音《あしおと》のように聴えるとすぐに遠ざかって、微かな鋭い、余韻を引くこともあるけれど、それは無理強いに彼らを導くようでもあり、また妙に、口にするのを阻むような力を具えていた。
 しかし、まもなく法水は、新しい莨《たばこ》に火を点じて、口を開いた。
「ところで、末尾にある註を見ると、これにもラハマン教授が不審を述べているのだが、その|隠れ衣《タルンカッペ》は一度|氷島《イスランド》で使われたきり、その後は杳《よう》として姿を消してしまったのだ。支倉君、氷島《イスランド》なんだよ――しかもその時は、ブルンヒルトの面前で行われ、また、それが動機となって、女王の不思議な運命悲劇が始まったのだ。ところが、この今様ニーベルンゲン譚詩《リード》になると、その氷島というのが何処あろうトリエステなんだよ」
「なに、トリエステ……」
「そうなんだよ。そこで支倉君、トリエステで|隠れ衣《タルンカッペ》を冠った、ジーグフリードというと、それはいったい、誰のことなんだろうね」
「すると君は、シュテッヘ大尉のことを云うのか。あの男は生きながら、『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』の中で消え失せてしまったのだ……」
「いやいや、その名はまだ、口にする時機じゃないがね。しかし、いま判っているのは、ジーグフリードがその|隠れ衣《タルンカッペ》を、自分で冠ったのではなく、ブルンヒルトに被《かぶ》せられた――という一事なんだ。そして、それ以来地上から姿を消して、とうてい理法では信ぜられぬ生存を続けているのだが、ときおり海上に姿を現わして、いまなお七つの海を漂浪《さまよ》っているのだ。ねえ支倉君、あの神秘の扉を開く鍵は、|隠れ衣《タルンカッペ》をつけたジーグフリード――この隠語一つの上にかかっているのだがね、いずれは防堤の上で、君にその姿を、御覧に入れる機会があるだろうよ」
 検事には、すでに言葉を発する気力がなかった。
 ただ彼は、ニーベルンゲン譚詩《リード》を繞《めぐ》って、二つの旋律が奏でられているような気がしていた。自分が弾《ひ》き出すと、いつも法水は、その上をいって、またその二つが絶えず絡み合うのだが、そうしていつ尽きるか涯しない迷路の中を、真転びひしめき行くように思われた。
 すると法水は、それまでにないひたむきな形相をして、言葉を次いだ。
「というのは、あるいは妄想かも知らんがね、実はある一つの、怖ろしい事実を知ったからなんだ。だから、一人の名を知れば、それでいいのだよ。ねえ支倉君、このモヤモヤした底知れない神秘――事実まったく迷濛たる事件じゃないか。ニーベルンゲン――暗い霧の子、|霧の衣《タルンカッペ》、ああ霧だ霧だよ、霧、霧、霧……」
 と法水の手が、頸《くび》の廻りをかいさぐると、握った指の間から、すうっと這い出るように海霧《ガス》が遁れて行くのだが、さてそうして開いた掌には烟《けむり》の筋一つさえ残らないのである。
 その指のしなだれ、燐火のような蒼白さには、ただでさえ、闇中の何物かに怯《おび》やかされていることとて、検事は耐らず、灯を呼びたげな衝動に駆られてきた。
 しかし、それは結論を述べる、法水の意外にも落着いた声で遮られた。
「そこで、僕が云うジーグフリードとは、いったい誰のことか。ジーグフリードのいないニーベルンゲン譚詩《リード》――この事件は、まさにそれなんだ。つまり、事件の解決は、あの大古典の伝奇的なつながりの中にあるのだ。ああ支倉君、紙魚《しみ》に蝕ばまれた文字の跡を補って、トリエステで口火が始まる、大伝奇を完成させようじゃないか」
 ジーグフリード……別名《エーリアス》は?
 それは事によると、芝居気たっぷりな法水が、暗にシュテッヘを差しているのかも知れず、もしくはまた、彼の卓越した心理分析によって、なにか会話の端からでも、新しい人名が掴み出されたのではないかと思われたが、そうして、検事は悪夢の中を行きつ戻りつしているうちに、いやが上にも謎を錯綜とさせる、法水を恨まずにはいられなかった。
 そこへ、書架の横にある扉《ドア》が開いて、朝枝の蝋色をした顔が現われた。
 彼女が手にした洋灯《ランプ》を、卓子《テーブル》の上に置くのにも、その痩せた節高い指が、痛々しく努力するのを見て、法水は憐憫の情で胸が一杯になった。
「気がつきませんで……。またなにかお訊ねになりたいことが、あるかとも思いまして。それより私、申し上げたいことがございますの」
「と云うと……」
「それは、父のことなんですけど、とうに母の口からお聴きかもしれませんが、ここ十四、五日の間というものは、きまって暁《あ》け方になると、五時を跨いで戸外に出るのです。御存知のとおりの不自由な身で、それがどうあっても、行かねばならぬものと見えまして、戻って来ると、それは息をきらして、暑苦しそうに頬を赤くしているのですわ。それでも、私に訊ねられますと、妙にドギマギして、なあに、入江の曲り角まで行って来たのさ――と答えるのでしたが、また妙に、その不思議な行動が一日も欠かしませず、実は、今朝がたまで続いていたのです。その入江の角というのを、御存知でいらっしゃいますか。裏の防堤がずうと伸びて、岬を少し縫ったところで終っているのですが、その曲ろうとする角が、そうなのでございます。その崖下には、今月の一日から『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』がつながれているのですわ」
「ふむ、『|鷹の城《ハビヒツブルグ》……』
 検事は莨《たばこ》の端をグイと噛み切ったほどに、驚かされてしまった。
「すると、その辺のことを、正確に記憶していますか。お父さんが、そういう行動を始めたのは、何日《いつ》ごろだったか」
「でも、それ以前はどうであったか存じませんが、とにかく臥《ふ》せりながら気づきましたのは、さあ半月ほどまえ、今月の十日からでございます。つまり、『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』が来てから十日の後、また三人の盲人《めくら》の方は、その二日まえ――五月二十九日にここへ参りましたのです」
 と朝枝は云って、なにかときめいたように躊躇《ちゅうちょ》していたが、やがて胸を張って、口にしたものがあった。
「それから、もう一つ申し上げたいのは、父のそうした行動《ふるまい》が始まった頃から、奇妙に母の態度が変って、荒々しくなってきたことです。ですから、一日中母の眼を避けて、父は紡車《つむぎぐるま》に獅噛《しが》みついていたのでしたわ。そのうえ、上の入歯を紛《な》くしたせいもあったでしょうか、いやに下唇ばかり突き出てしまって、それを見るとほんとうに、ひとしお家畜《けもの》めいて憐《いじ》らしく思われました」
 とその声が、ふと杜絶《とぎ》れたかと思うと、彼女は瞳を片寄せて、耳を傾《か》しげるような所作《しぐさ》を始めた。
「ホラ、お聴きでございましょう。向うの室《へや》から、コトリコトリと聴えてくる音《ね》が……。あれがいま申し上げた紡車なのです。でもまあ、こんな時、誰が廻しているのでしょうねえ」
 朝枝の不審は、それ以上の動作には出なかったけれども、彼女が去った後の室内は、沈黙の中で凝《じっ》と虚空から見つめているものがある気がして、なにか由々しい怖《おぞ》ましげな力が、ぞくぞくと身の上に襲いかかってくるのを感じた。
 それまではいつか笑い声のうちに消え去るかと、朧《おぼ》ろな望みに耽っていたもの――それがいまや、吹きしく嵐と化したのであったが、二人はそこの閾《しきい》まで来たとき、ハッと打ち据えられたように顎を竦《すく》めた。
 それは、コトリと一つ、微《かす》かに響いたかと思われると、その長い余韻の上を重なるようにして、背後にある室《へや》から、盲人《めくら》の話声が聴えるのだったが、もちろん怖れというのはそれではなかった。その室《へや》には、前方に色の褪せた窓掛が、ダラリと垂れているだけで、その蔭の窓にも隅の壁炉にも、それぞれ掛金や畳扉《たたみど》が下りてはいるが、壁炉の前にある紡車を見ると、それには糸の巻き外れたものが幾筋となくあって、明らかに触れた人手があったのを証拠立てていた。
 誰ひとり入ることのできないこの室《へや》で、紡車が巻かれてあった――まさにその変異は、最初法水が防堤の上で想像した一人の、眼に触れた最初の断片なのである。
 まして、夜な夜な八住が外出していたということは、またその渦を狭めるものであって、結局《とどのつまり》、すべてが「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」に集注されてしまうのだが、そうして、二人はこの短時間のうちに、全身の胆汁《たんじゅう》を絞り尽したと思われるほどの、疲労を覚えたのであった。
 やがて、旧《もと》の室《へや》に戻ると、そこにはウルリーケが、皮肉そうな微笑を湛えて二人を待っていた。

      二、鉄仮面の舌

 ウルリーケの顔は、血を薄めたような灯影の中で、妙に狷介《けんかい》そうな、鋭いものに見えた。が、二人が
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