ュけん》のように弄《もてあそ》んで、それが薄れ消えるときは、鈍い重たげな音を感ずるのである。
 やがて、海霧《ガス》の騎行に光が失せて、大喇叭《テューバ》のような潮鳴りが、岬の天地を包み去ろうとするとき、そのところどころの裂目を、鹹辛《しおから》い疾風《はやて》が吹き過ぎて行くのだが、その風は氷のように冷たく、海霧はまた人肌のように生ぬるかった。
 そうして岬の一夜――まこと彼ら二人にとれば、その記憶から一生離れ去ることのないと思われるほど、おぞましい、悪夢のような闇が始まったのである。
 その――古風な風見が廻っている岬の一つ家には、痩せてひょろ高い浜草が、漆喰《しっくい》の割目から生え伸びているほどで、屋根は傾き塗料は剥げ、雨樋《あまどい》は壊れ落ちて、蛇腹《じゃばら》や破風は、海燕の巣で一面に覆われていた。
 そうした時の破壊力には、えてして歴史的な、動かしがたい思い出などが結びついているものだが、誰しもその自然の碑文には心を打たれ、また、それらのすべては、傷《いた》ましい荒廃の感銘にほかならないのであった。
 しかし、外見は海荘風のその家も、内部《なか》に入ると、いちじるしく趣を異にしてくる。
 天井は低く床は石畳で、扉《ドア》のある部分は、壁が拱門《アーチ》形に切り抜かれている。そして、その所々には、クルージイと呼ばれて魚油を点す壁灯《かべび》や、長い鎖のついた分銅を垂している、古風な時計などが掛けられているのだから、もしそこに石炉や自在鉤や紡車《つむぎぐるま》が置かれてあったり、煤けた天井に、腹を開いた燻《くん》製の魚などが吊されているとすれば、誰あろうがこの家を、信心深い北海の漁家とみるに相違ない。
 扉《ドア》を入ると、そこは質素な客間だったが、正面の書架の上には、一枚の油絵が掲げられていて、それには美しく、威厳のある士官が描かれてあった。
 それがウルリーケの夫、テオバルト・フォン・エッセン男爵の画像だったのである。
 金髪が柔らかに額を渦巻いて、わけても眼と唇には、憧れを唆《そそ》り立てる、魔薬のような魅力があった。
 法水はウルリーケの室《へや》を出ると、その画像をしばらく見詰めていたが、やがて眼を落して、書架の中から一冊の本を抜き出した。
 その書名を肩越しに見て、「快走艇術《ヨッチング》」――と、検事は腹立たし気に呟《つぶや》いたが、そのまま薄暗い室内を歩きはじめた。
 灯のこないその室《へや》には、微かな、まるで埃のような光靄《もや》が漂っていて、木椅子の肌や書名の背文字が異様に光り、そのうら淋しさのみでも、低い漠然とした恐怖を覚えるのだった。
 やがて検事は、寒々とした声で呟きはじめた。
「法水君、君はもっと野蛮で、壮大であって欲しいと思うよ。きまって殺人事件となると、肝腎の犯人よりも、すぐに空や砂、水の瑠璃色などを気にしたがるのだからね。そこで断《ことわ》っておくが、ここには、黒死舘風景はないんだぜ。豪華な大画|舫《ほう》や、綺《きら》びやかな|鯨骨を張った下袴《ファシング・スカート》などが、この荒《あば》ら家のどこから現われて来るもんか。だから、今度という今度、書架の前だけは素通りしてくれると思っていたよ。『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』を快走艇《ヨット》に外装した――それが、古臭いバドミントン叢書になんの関係があるんだい。そんな暗闇の中で、見えもせぬ本を楯に、君はなにを考えているのだ?」
「そうは云うがねえ支倉君、もしこの銅版画が、僕の幻を実在に移すものだとしたら、どうするね。見給え――一八四三年八月、王立《ロイヤル》カリンティアン倶楽部《クラブ》賞盃獲得艇『神秘《ミステリー》』とある……」
 と艇長が属していた倶楽部旗を示したが、やがて法水は、呆気《あっけ》にとられた検事を前に、長い間《ま》を置いてから、
「なるほど、君の云うとおりかもしれんよ。この事件ではっきり区別できる色といえば、まず海の緑、空の紺青《こんじょう》、砂の灰――とこの三つしかない。ところが支倉君、この三色刷を見詰めているとだ。どうやら碑銘を読んでくれる、死人の名が判ったような気がしてきたよ」
 と云うと、検事はその頁《ページ》をパタンと閉じて、嘆息した。
「すると、緑、紺青、灰――というと、この点十字の三角旗にある、色合の全部じゃないか。だが、その倶楽部にいた艇長は、すでに死んでいる……ああやはり、君は自分勝手で小説を作ったり、我を忘れて、豊楽な気分に陶酔しているんだ。そんな石鹸玉《シャボンだま》みたいなもので、あの海底の密室が、開かれると云うのならやって見給え。では、兇器をどこから捜し出すね。それに、あの室《へや》から姿を消したお化けは、いったい誰なんだ。また、あの時胸を抉《えぐ》られたにもかかわらず、八住《やずみ》は悲鳴をあげなかった――それも、すこぶる重大な疑問じゃないかと思うよ。僕は、そうしている君を見ると、じつにやりきれない気持になるのだがね。まして君は、夜な夜な海から上がって、防堤に来る男がある――と云う。もし、それが真実だったら、この朦朧とした結合《コンビネーション》には、永劫解ける望みがない」
「そうなんだ支倉君、まさに|時は過ぎたり《ディ・フリスト・イスト・ウム・エンデ》――さ。この事件の帰するところは、さしづめ、この一点以外にはないと思うよ」
 と薄闇の中から、法水が声を投げると、検事は慌《あわ》てて両手を握りしめた。そして、
「なに、|時は過ぎたり《ディ・フリスト・イスト・ウム・エンデ》――本気か法水君、君は捜査を中止しろと云うのか」
 と叫んだが、その時意外にも、法水はこらえ兼ねたように爆笑を上げた。
「ハハハハハ冗談じゃない。僕は、久し振りで陸へ上がった、ヴァン・シュトラーテンのことを云っているのだよ。幕が上がって幽霊船長が、七年ぶりでザントヴィーケの港に上陸するとき、はじめその中低音《バリトン》が、この歌を唱うんだ。つまり、僕が云うのはワグネルの歌劇さ――『|さまよえる和蘭人《ディ・フリーゲンデ・ホレンダー》』のことなんだよ」

[#ここから4字下げ]
(註)。「さまよえる和蘭人」――船長ヴァン・シュトラーテンは、嵐の夜冒涜の言葉を発したために、永劫罰せられ、海上を漂浪せねばならなくなる。そして、七年目に一度上陸を許されるのだが、ザントヴィーケの港で少女ゼンタの愛によって救われ、幽霊船は海底に沈んでしまう。
[#ここで字下げ終わり]

 そうして、手にした埃りっぽい譜本を示したが、その皮肉な諧謔《ユーモア》に、検事は釘づけられるような力を感じた。
 なぜなら、幽霊船長ヴァン・シュトラーテンの上陸――その怪異伝説が、法水の夢想にピタリと一致したばかりでなく、わけても検事には、それによって、一つ名が指摘されたように考えられたからである。
 というのは、途々《みちみち》ウルリーケが話したとおりに、艇長の生地が和蘭《オランダ》のロッタム島だとすれば、当然その符合が、彼を指差すものでなくて何であろう。
 しかし、一方艇長の死は確実であり、またよしんば生存しているにしても、それは、「維納《ウイン》の鉄仮面」の名で表わされているのであるから、検事は考えれば考えるほど、疑惑の底深さに怖れを感ずるのだった。
 が、その折、法水は右手の壁に顎をしゃくって、検事に見よとばかりに促《うなが》した。そこは、ウルリーケの室《へや》に続く合いの扉《ドア》で、わずかに透いた隙間から、室内の模様が手にとるごとく見えた。壁には、脂《やに》っぽい魚油が灯されていて、その光が、枢《くるる》の上の艇長の写真に届いているのだが、その下で、ウルリーケがぼんやりと海を眺めている。
 その前方には、防堤が黒いリボンのように見えて、その上に、星が一つまた一つとあらわれてくる。
 しかし、検事はその遠景でなしに、なにを認めたのであろうか、思わず眼をみはって吐息を洩らした。
 なぜなら彼は、夫の死にもかかわらず、華美《はで》な平服《ふだんぎ》に着換えた、ウルリーケを発見したからである。
「こりゃ驚いた――あの女は亭主が殺されるまでは、喪服を着ていて、死んでしまうと、今度は快走艇着《ヨットぎ》に着換えてしまった。明らかにウルリーケは、八住を卑下しているんだ。だが、どう考えても、犯人じゃないと思うね。自分の熱情の前には、何もかも忘れて、ただそれのみを、ひたむきに露出《むきだ》してしまうのだ。ねえ法水君、そういった種類の女には、きまって犯罪者はいないものだよ」
 と旧《もと》の卓子《テーブル》の所まで戻って来ると、彼は小声で法水に囁いた。
「だが一応は、アマリリスを調べてみる必要があると思うね。朝枝の云うのが、もし真実だとすれば、アマリリスをウルリーケが持ち込むと同時に、殺人が起ったと云えるだろう。そして、それまで十何日か鎖ざしていた蕾が、その時パッと開いてしまったのだ……」
 海霧《ガス》が扉《ドア》の隙からもくもく入り込んで来て、二人の周囲《ぐるり》を烟《けむり》のように靡《なび》きはじめた。が、それを聴くと、法水は突然坐り直したが、すると頭上の霧が、漏斗《じょうご》のように渦巻いて行くのだ。彼は手にした「ニーベルンゲン譚詩《リード》」を、縦横に弄びながら、
「冗談じゃないね。この事件に、心理分析も検証もくそもあるもんか。あのトリエステに始まった、大伝奇の琴線に触れることだよ。で、先刻《さっき》この本を見たとき、ふと思いあたったことだが、君はシャバネーが|運命の先行者《ペロール・ゴアー・オヴ・デスティニー》と云った、憑着《ひょうちゃく》心理を知っているかね。かりに、自分の境遇が、小説か戯曲中の人物に似ているとする場合だ。そのちょっとした発見から、たちまち偏見が湧き起って、その人間は遮二無二最後の頁を開け、大団円《キャタストロフ》を見てしまうんだ。現に、その展覧狂めいたものが、あの流血には現われているじゃないか。だが支倉君、もし、その心理を前提とするとだ……」
 検事はニコリと微笑んで、法水に全部を云わせなかった。
「なるほど判った。それで君は、クリームヒルトのことを云いたいのだろう。あの女主人公《ヒロイン》の個性は、この暗い復讐悲劇の中で、最も強烈を極めている。ハーゲンに殺された夫ジーグフリードの幻を、胸に抱きしめて、クリームヒルトは匈牙利《ハンガリー》王エッツェルの許に嫁ぐ。そして、十七年後に復讐を遂げるのだが、それには船長を片時も忘れられず、八住の妻となった、ウルリーケが生き生きとしているじゃないか。あの気高く、何ものをも覆い尽そうとする愛――その青白さはどうだ。あれはまったく、超自然の色だよ。ウルリーケの血管に、まさか一滴の血もない気遣いはないが、もし青白い光の前に立たせたとしたら、あの女は無形物のように透きとおってしまうだろう。だが、法は法、動機は動機だ……」
 と検事は卓子《テーブル》を叩かんばかりの気配を示したが、その時ふと、竦《すく》んだような影が差した。
 と云うのは、この静寂《しじま》のなかを左手の室《へや》――そこには、扉《ドア》も窓も鎖されていて、なに者もいよう道理のない部屋の方向からして、妙に侘しく、コトリコトリと寒さげな音がひびいてきたからである。
 しかし、智性を鋭くしてみると、そこには心を乱すような、何ものも含まれている気遣いはないのであるから、瞬間に検事は、旧《もと》の顔色を復して続けた。
「ねえ法水君、不幸にして、『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』遭難の真相が明らかではない。もし、あの夜海底で八住が艇長を殺し、そうした気配が、日誌の中に記されていたとすれば――だ。なにしろ、八住は盲目《めくら》なんだし、またそれと知って、十七年間機会を狙っていたものと云えば、まずウルリーケをさておいて、ほかに誰があるだろう。あの日誌を破ったのは、てっきりウルリーケだと思うよ。ああ、十七年後……」
 とそこで計らずも検事は、「ニーベルンゲン譚詩《リード》」とこの事件とをつなぐ、第二の暗合を発見した――十七年後。
 すると、ハ
前へ 次へ
全15ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング