十|尋《ひろ》近くも下ったことがあったが、その時は、駆逐艦に援護された、日本の商船隊を認めたときであった。
「艇長、貴方は、あの駆逐艦が怖いのですか」
事務長の犬射は、ときおり独詩を書いて示すので、艇長とは打ち解け合った仲であった。
「いや、怖くもないがね。君も知ってのとおり、本艇には、あますところ魚雷が一本だけだ。で、なるべくは大物というわけでね」
そう云って艇長は、蓄音器の把手《ハンドル》をまわし、「碧《あお》きドナウ」をかけた。三鞭酒《シャムパン》を抜く、機関室からは、兵員の合唱が洩れてくる。
が、こうして語るその情景を、眼に、思い泛《うか》べてもらいたい。霧立ち罩《こ》めた夜、波たかく騒ぐ海、駆逐艦からは爆雷が投ぜられて、艇中の鋲《びょう》がふるえる。
しかも、そのまっ暗な、水面下三百|呎《フィート》のしたでは、シュトラウスのワルツが響き、三鞭酒《シャムパン》の栓がふっ飛んでいるのである。四人は、噛《か》みかけた維納腸詰《ウイン・ソーセージ》を嚥《の》み下すこともできず、しばらくは、奇異《ふしぎ》な、浪漫的《ロマンチック》な、悪夢のなかを彷徨《さまよ》っていた。
以
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