ワ薄暗い室内を歩きはじめた。
灯のこないその室《へや》には、微かな、まるで埃のような光靄《もや》が漂っていて、木椅子の肌や書名の背文字が異様に光り、そのうら淋しさのみでも、低い漠然とした恐怖を覚えるのだった。
やがて検事は、寒々とした声で呟きはじめた。
「法水君、君はもっと野蛮で、壮大であって欲しいと思うよ。きまって殺人事件となると、肝腎の犯人よりも、すぐに空や砂、水の瑠璃色などを気にしたがるのだからね。そこで断《ことわ》っておくが、ここには、黒死舘風景はないんだぜ。豪華な大画|舫《ほう》や、綺《きら》びやかな|鯨骨を張った下袴《ファシング・スカート》などが、この荒《あば》ら家のどこから現われて来るもんか。だから、今度という今度、書架の前だけは素通りしてくれると思っていたよ。『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』を快走艇《ヨット》に外装した――それが、古臭いバドミントン叢書になんの関係があるんだい。そんな暗闇の中で、見えもせぬ本を楯に、君はなにを考えているのだ?」
「そうは云うがねえ支倉君、もしこの銅版画が、僕の幻を実在に移すものだとしたら、どうするね。見給え――一八四三年八月、王立《ロイヤル》カリンティアン倶楽部《クラブ》賞盃獲得艇『神秘《ミステリー》』とある……」
と艇長が属していた倶楽部旗を示したが、やがて法水は、呆気《あっけ》にとられた検事を前に、長い間《ま》を置いてから、
「なるほど、君の云うとおりかもしれんよ。この事件ではっきり区別できる色といえば、まず海の緑、空の紺青《こんじょう》、砂の灰――とこの三つしかない。ところが支倉君、この三色刷を見詰めているとだ。どうやら碑銘を読んでくれる、死人の名が判ったような気がしてきたよ」
と云うと、検事はその頁《ページ》をパタンと閉じて、嘆息した。
「すると、緑、紺青、灰――というと、この点十字の三角旗にある、色合の全部じゃないか。だが、その倶楽部にいた艇長は、すでに死んでいる……ああやはり、君は自分勝手で小説を作ったり、我を忘れて、豊楽な気分に陶酔しているんだ。そんな石鹸玉《シャボンだま》みたいなもので、あの海底の密室が、開かれると云うのならやって見給え。では、兇器をどこから捜し出すね。それに、あの室《へや》から姿を消したお化けは、いったい誰なんだ。また、あの時胸を抉《えぐ》られたにもかかわらず、八住《やずみ》は悲鳴をあげなかった――それも、すこぶる重大な疑問じゃないかと思うよ。僕は、そうしている君を見ると、じつにやりきれない気持になるのだがね。まして君は、夜な夜な海から上がって、防堤に来る男がある――と云う。もし、それが真実だったら、この朦朧とした結合《コンビネーション》には、永劫解ける望みがない」
「そうなんだ支倉君、まさに|時は過ぎたり《ディ・フリスト・イスト・ウム・エンデ》――さ。この事件の帰するところは、さしづめ、この一点以外にはないと思うよ」
と薄闇の中から、法水が声を投げると、検事は慌《あわ》てて両手を握りしめた。そして、
「なに、|時は過ぎたり《ディ・フリスト・イスト・ウム・エンデ》――本気か法水君、君は捜査を中止しろと云うのか」
と叫んだが、その時意外にも、法水はこらえ兼ねたように爆笑を上げた。
「ハハハハハ冗談じゃない。僕は、久し振りで陸へ上がった、ヴァン・シュトラーテンのことを云っているのだよ。幕が上がって幽霊船長が、七年ぶりでザントヴィーケの港に上陸するとき、はじめその中低音《バリトン》が、この歌を唱うんだ。つまり、僕が云うのはワグネルの歌劇さ――『|さまよえる和蘭人《ディ・フリーゲンデ・ホレンダー》』のことなんだよ」
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(註)。「さまよえる和蘭人」――船長ヴァン・シュトラーテンは、嵐の夜冒涜の言葉を発したために、永劫罰せられ、海上を漂浪せねばならなくなる。そして、七年目に一度上陸を許されるのだが、ザントヴィーケの港で少女ゼンタの愛によって救われ、幽霊船は海底に沈んでしまう。
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そうして、手にした埃りっぽい譜本を示したが、その皮肉な諧謔《ユーモア》に、検事は釘づけられるような力を感じた。
なぜなら、幽霊船長ヴァン・シュトラーテンの上陸――その怪異伝説が、法水の夢想にピタリと一致したばかりでなく、わけても検事には、それによって、一つ名が指摘されたように考えられたからである。
というのは、途々《みちみち》ウルリーケが話したとおりに、艇長の生地が和蘭《オランダ》のロッタム島だとすれば、当然その符合が、彼を指差すものでなくて何であろう。
しかし、一方艇長の死は確実であり、またよしんば生存しているにしても、それは、「維納《ウイン》の鉄仮面」の名で表わされているのであるから、検事は考えれば考えるほど、疑
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