カて、法水を見ると、そこにはいつも変らぬ、鉄壁のような信念が燃えているのであるから、いよいよもって、その心理劇の正体が朦朧《もうろう》としてしまい、知りつつ――そこを迷路と承知しながらも、検事は足を引き抜くことができなくなってしまうのだった。
やがて、ウルリーケは家の中に去ってしまったが、検事だけはひとり残って、ぼんやりと海景を眺め暮していた。それは、法水が持ち出した混沌画の魅力に圧せられて、彼は模索の糸を、絶つことができなかったからである。
――ああ法水がキッパリと云い切った態度からは、毫《ごう》もいつものように術策や、詭計らしい匂いが感ぜられなかった。
のみならず、彼の神経といえば、それこそ五|浬《マイル》先の落ち櫂《かい》さえも見遁《みのが》さぬという、潜望鏡のそれよりも鋭敏ではないか。
そうすると、事によったら、彼の眼に映じたものは、生きながら消え失せて、「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」の悪霊と呼ばれるシュテッヘ大尉ではなかったか。
それとも、まだ名も姿も知られていない何者かが、しかも帆桁《ほげた》は朽ち船員は死に絶えても、嵐と凪《なぎ》を越え、七つの海を漂浪《さすら》い行くと云われるのだが、その身は生とも死ともつかず、永劫《えいごう》の呪縛にくくられている幽霊船長《ファンダーデッケン》と――きしみ合う二つの車輪、まさに幻想と現実とが、触れ合おうとする空怖ろしさ、またそれを縫ってシュテッヘの幻が、見もせぬに跳び上がり、沈み消えしては踊り乱れるのだった。
が、そうしてああでもないこうでもないと、もの狂わしい循環論の末には、いつか知性も良識も、跡方なく飛び散ってしまって、まったく他《はた》の眼から見たら、滑稽なほどの子供っぽさ、いたずらに神話の中を経めぐったり、あるいは形相《ぎょうそう》凄まじい、迷信の物の怪《け》に怯《おび》えたりなどして、検事はしだいに夢を換え、幻から幻に移り変って行くのだったが、やがて終いには、その深々とした神秘、伝奇めいた香気に酔いしどれてしまって、譫妄《たわごと》にも、殺人事件の犯人などどうでもよいと思われたほど、いまや彼の感覚は、まったく根こそぎ奪い尽され去ってしまった。
そのおり、黄昏《たそがれ》の薄映えは、いぜん波頭を彩っていたけれども、海霧《ガス》は暗さを増す一刻《ひととき》ごとに濃く、またその揺動が、暗礁を黒鍵《こくけん》のように弄《もてあそ》んで、それが薄れ消えるときは、鈍い重たげな音を感ずるのである。
やがて、海霧《ガス》の騎行に光が失せて、大喇叭《テューバ》のような潮鳴りが、岬の天地を包み去ろうとするとき、そのところどころの裂目を、鹹辛《しおから》い疾風《はやて》が吹き過ぎて行くのだが、その風は氷のように冷たく、海霧はまた人肌のように生ぬるかった。
そうして岬の一夜――まこと彼ら二人にとれば、その記憶から一生離れ去ることのないと思われるほど、おぞましい、悪夢のような闇が始まったのである。
その――古風な風見が廻っている岬の一つ家には、痩せてひょろ高い浜草が、漆喰《しっくい》の割目から生え伸びているほどで、屋根は傾き塗料は剥げ、雨樋《あまどい》は壊れ落ちて、蛇腹《じゃばら》や破風は、海燕の巣で一面に覆われていた。
そうした時の破壊力には、えてして歴史的な、動かしがたい思い出などが結びついているものだが、誰しもその自然の碑文には心を打たれ、また、それらのすべては、傷《いた》ましい荒廃の感銘にほかならないのであった。
しかし、外見は海荘風のその家も、内部《なか》に入ると、いちじるしく趣を異にしてくる。
天井は低く床は石畳で、扉《ドア》のある部分は、壁が拱門《アーチ》形に切り抜かれている。そして、その所々には、クルージイと呼ばれて魚油を点す壁灯《かべび》や、長い鎖のついた分銅を垂している、古風な時計などが掛けられているのだから、もしそこに石炉や自在鉤や紡車《つむぎぐるま》が置かれてあったり、煤けた天井に、腹を開いた燻《くん》製の魚などが吊されているとすれば、誰あろうがこの家を、信心深い北海の漁家とみるに相違ない。
扉《ドア》を入ると、そこは質素な客間だったが、正面の書架の上には、一枚の油絵が掲げられていて、それには美しく、威厳のある士官が描かれてあった。
それがウルリーケの夫、テオバルト・フォン・エッセン男爵の画像だったのである。
金髪が柔らかに額を渦巻いて、わけても眼と唇には、憧れを唆《そそ》り立てる、魔薬のような魅力があった。
法水はウルリーケの室《へや》を出ると、その画像をしばらく見詰めていたが、やがて眼を落して、書架の中から一冊の本を抜き出した。
その書名を肩越しに見て、「快走艇術《ヨッチング》」――と、検事は腹立たし気に呟《つぶや》いたが、そのま
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