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 と云いかけたとき、断崖の尽きた岩壁に、日傘が二つ並んでいた。ウルリーケと朝枝が、のぼってくる二人を待っていた。
 岩壁の窪みには、菫《すみれ》色をした影が拡がっていて、沖からかけての一面の波頭は、夕陽の箭《や》をうけて黄色い縞をなしていた。
 法水は、しばらく雑談している三人から離れて、俯向《うつむ》きながら歩いていたが、やがて速歩《はやあし》に追いつくと、ウルリーケにいった。
「ねえ夫人《おくさん》、艇内日誌には、わずか一、二枚しか残っていないのですが、貴女は切り取られた内容を御存知ですか――そして、誰がいつ切り取ったかも」
「いいえ、どっちも存じませんわ」
 ウルリーケは日傘を返して、法水にチラリと流眄《ながしめ》をくれたが、
「あれが、もし完全でしたら、きっとテオバルトの忠誠が報われたにちがいないと信じております」
「しかし、生還は……夢にも信じてはおいでにならなかったのでしょうね」
 と優しげな声音《こわね》ながらも、法水が畳みかけると、ウルリーケは不意の熱情に駆られて、微《かす》かに声を慄《ふる》わせた。
「ええどうして、テオバルトの生還が望まれましょうか。ですけど法水さん、私、あの『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』だけは、いつかかならず戻って来ると信じておりましたわ。
 艇内が海水でいっぱいになって、クローリン瓦斯《ガス》が濛々《もうもう》と充々《みちみち》ていても――ええ、そうですわ。あの真黒に汚れた帆が、どうしたって、私には見えずにいないと信じておりましたわ。
 ところが『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』の遭難が、私を永達に引き離してしまいました。孤独――いまの私に、それ以外の何ものがございましょう」
 と、ウルリーケは悲しそうにいったが、法水は、彼女の声が終るとそれなり黙りこんでしまった。しかし、頭のなかでは、それまで分離していたいくつかの和声旋律が合して、急に一つの荘厳な全音合奏《コーダ》となりとどろいた。
 そして、その夕《ゆうべ》からはじまった急追を手はじめにして、彼の神経は、あの不思議な三角形――艇長・シュテッヘ大尉・維納《ウイン》の鉄仮面と、この三つを繋ぐ直線の上ではたらきはじめた。
「夫人《おくさん》、いつぞや貴女は、菩提樹《リンデン》の葉と十字形《クロスレット》とで、いったい何を示そうとなさったのですか。そして、貴女が最も懼《おそ》れられていたその男が、毎夜、裏庭の防堤にまで、来ていたのは御存知ないのですか」
 と八住家の玄関を跨《また》ぐと、法水は突如ウルリーケを驚かせたが、そう云いながらも彼は、背筋を氷のような戦慄《せんりつ》が走り過ぎたのを覚えたのであった。
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    第三編 偶像の黄昏《たそがれ》


      一、漂浪《さまよ》える「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」

 いったんは、ウルリーケも愕《ぎょ》っとしたように振りむいたが、しばらく日傘をつぼめかけたままじっと相手の顔をみつめていた。
 その顔は、また不思議なほどの無表情で、秘密っぽい、法水《のりみず》の言葉にも反響《こだま》一つ戻ってはこないのだ。やがて、自失から醒めたように、正確な調子で問いかえした。
「お言葉の意味が、はっきりとは判りませんけれど、私が怖ろしがっている男というのは、そりゃいったい誰のことなんですの。夜になると裏の防堤に来る――と、いまたしかにそうおっしゃいましたわね。では、その名を打ち明けて下さいましな――ああ誰なんでしょうね。またその男が、貴方《あなた》は、どこから来るとおっしゃるんですの」
「その名は、まだ不幸にして指摘する時機には達しておりません。しかし、その男の出現には、れっきとした証拠があがっているのです。夫人《おくさん》、実は彼方《あちら》からなんですよ」
 と沈痛な眉をあげて、法水は顎を背後にしゃくった。
「海からです。その男は、毎夜海から上がって来て、あの防堤のあたりを彷徨《さまよ》い歩くのです。ですが夫人《おくさん》、けっして僕は幻影を見ているのじゃありませんよ。それには、暗喩《メタフォル》も誇張《イペルボール》もありません。修辞はいっさい抜きにして、僕はただ厳然たる事実のみを申し上げているのです。たぶん、明日の夜の払暁《ひきあけ》には、その姿を、防堤の上で御覧になるでしょう」
「なに、海から……毎夜海から上がって、裏の防堤に来る……」と顎骨をガクガク鳴らせながら、検事は頭の頂辺《てっぺん》まで痺れゆくのを感じた。
 そして、われ知らず防堤の方《かた》を見やるのであったが、どうしたことか、肝腎のウルリーケには、なんの変化も現われてはこない。
 彼女の胸は、ふんわりと気息《いきづ》いていて、その深々とした落着きは、波紋をうけつけぬ隠沼《こもりぬ》のように思えた。しかし、その眼を転
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