フみ彼を傷つけるを得ん。されば、われその手を懼《おそ》るるなり】

 それから、三句ばかりの後にも、次の一つがあった。

 Said she "Upon his vesture with a fine silken thread, I'll sew a secret crosslet.
【クリームヒルトは云う――。われ秘《ひそ》かに美《うるわ》しき絹糸もて、衣の上に十字を縫いおかん】

「いつかは判《わか》ることだろうが、この数章の中に、二個所だけ、紫鉛筆で傍線《アンダーライン》が引いてある―― Leaf《リーフ》(葉)と Crosslet《クロスレット》(十字形)の下にだ。だが、けっしてこれは今日このごろ記されたものではない。とにかく支倉君、この艇内日誌を調べてみることにしよう。そうしたら、あるいはこの傍線《アンダーライン》の意味が、判ってくるかもしれないからね」
 と飽くことを知らない彼の探求心は、普通ならば誰しも看過《みのが》すかと思われるような、傍線《アンダーライン》の上に神経をとどめた。
 そして、白いズック表紙の艇内日誌を開いたが、その時二人の眼にサッと駭《おどろ》きの色がかすめた。
 というのは、最初の一頁と、中ごろにある伊太利《イタリー》戦闘艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の雷撃を記した、一枚以外の部分は、ことごとく切り取られているからだった。
 ところが、それを初めから読み下していくうちに、最初の日の記述の中から、次の一章を拾い上げることができた。

 ――ウルリーケが首途《かどで》の贈り物に、「ニーベルンゲン譚詩《リード》」をもってした真意は、判然としないが、彼女はそのうちの一節に紫鉛筆で印しをつけ、かたわらの艇員の眼を怖れるようにして余《よ》に示した。
 余はただちにその意味を覚ったので、くれぐれも注意する旨を述べ、彼女に感謝した。しかし、それがために心は暗く、彼女の思慮はかえって前途に暗影を投げた。

      三、深夜防堤の彷徨《ほうこう》者

「法水《のりみず》君、分った、やっと分ったよ。傍線《アンダーライン》をつけたのは、やはりウルリーケだったのだ」
 検事が勢い込むのを、法水は不審げに眺めていたが、
「分ったって……、いったい何が分ったのだ?」
「つまり、葉《リーフ》と十字形《クロスレット》さ。いわばこいつは、ジーグフリードの致命点だったからね。それに、傍線を引いて、フォン・エッセンに示したところをみると、何かそこになくてはならぬわけだろう」
「なるほど、辻褄《つじつま》は合うがね。だが僕は、君の云うような、安手な満足はせんよ。大いに出来ん。とにかく、もっと先を読んでみよう」
 と、彼は頁を繰り、タラント軍港における、巨艦雷撃の個所を読みはじめた。

 ――一日の仕事が終って、きょうも日が暮れようとする。
 余はわが艇を、アドリアチックの海底に沈め休息をとることになった。艇自身は、まるで寝床にいるような、柔らかな砂上に横臥している。天候は、穏やかである。砂上にある艇も、ユラユラ動揺することもない。
 ところが、ふと、聴音器に推進機《スクリュー》の響きが聴えてきた。
 そこで、ふたたび浮揚し潜望鏡《ペリスコープ》を出してみると、残陽を浴び、帆を燃え立たせた漁船の群が、一隻の汽船を中心に、網を入れつつある。
 好餌《こうじ》――余の胸に、餓えた狼が羊を見るような、衝動がこみあがってきた。盲弾《めくらだま》を放ったにしろ、たしか十隻はうち沈めることができる。ちょうど、射撃演習そっくりにあの汽船を撃沈すれば、燃料や食料品はしこたま手に入るだろう。
 が反面には、潜航艇出没の警報が、風のように流布される懼《おそ》れがある。明暁《あす》の決行――それまでは何事も差し控えねばならぬ。
 と、余は胸をさすりさすり水深を測ったのち、艇をふたたび沈下せしめた。
 深度器を見ながら、機関部に、いま海底に着くぞという声が、唇を離れようとしたとき、艇体に微震を感じた。これで、艇体がまったく着底したわけである。
 余は、底荷水槽《バラストタンク》に水を入れ、動揺を防いだのち、艇首から艇尾まで充分に点検させた。それが終り、「すべて固く密閉、故障なし」の報告があって、余は総員に、部署を離れ充分に休養するよう――命じた。
 ここは、風波の憂いもなく、敵襲の怖れもなく、世界中で最も安全な地点である。しかも、激務を終ったのちの、休養の愉快さは、他に比すべきものもないであろう。各自の部署を離れて、兵員室に行く部下の顔は明日の決行を思い、誇りと喜悦の色に輝いている。
 それから、昏々と眠りつつあったとき、大声で、艇長、三時三十分です――と呼び醒《さま》されたのであった。聴けば、二時頃から|横揺れ《ローリング》をはじめ、天候が変って、海上は
前へ 次へ
全37ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング