A風波強いらしく思われた。
 そこで、早目の朝食後、余は総員に訓示をあたえた。
「諸君よ、今暁吾々が行う潜行は、祖国を頽廃《たいはい》から救う、偉大なる隠れんぼうである。しかし、怖れることはない。普魯西《プロシヤ》には、われわれ以前に、赫々《かくかく》たる功勲にかがやく、戦友が多々いるのである。今暁《こんぎょう》われわれは、彼ら以上の大成功を期待している。諸君よ、怖れず今暁《けさ》も子供のように隠れようではないか。余は各自が、充分その任務を尽さんことを望む。諸君、サア、浮揚の部署につこう」
 それから、艇を水面下十|米《メートル》の位置に置き、静かに潜望鏡《ペリスコープ》を出して、四囲の形勢をうかがった。しかし、海上は波高く、展望はきかなかった。
 が、右舷のはるかに、黒々と防波堤が見え、星のように燦《きら》めくタラント軍港の燈火――いまや、戦艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は目睫《もくしょう》の間《かん》に迫ったのである。
 水上に出ると、頬に、払暁の空気が刺すように感じた。本艇は、このとき通風筒をひらき新鮮な空気を送ったのち、やおら行動を開始したのであった。
 朝霧のために、防波堤の形は少しも見えないのであるが、その足元で、砕ける波頭だけは、暈《ぼ》っと暗がりのなかに見えた。艇を進め、入江に入り込んだとき、霧はますます酷《ひど》くなってきた。
「止むを得ん。こりゃ、亀の子潜行だ」
 それは、潜望鏡《ペリスコープ》の視野が拡大された今日では、すでに旧式戦術である。敵艦に近づき、突如水面に躍り出で、そうしてから、また潜《もぐ》って、魚雷発射の機会を狙うのである。
 と、ルーレットの目に、身を賭けたわれわれは、ここに、予想もされなかったところの、強行襲撃にでた。
 展望塔は活気づいてきた。神経が極度に緊張して、もう伊太利《イタリー》の領海だぞ――という意識がわれわれを励ましてくれた。
 その時、漠々たる闇の彼方に、一つの手提げ灯が現われたのである。そして、大きな声で、
「オーイ、レオナルド・ダ・ヴィンチ……」
 と呼ぶ声が聴えた。
 僚艦の一つらしく、続いて現われた灯に、本艇は、戦艦レオナルド・ダ・ヴィンチの所在を知ったのであった。が、そのとき、何ものか艇首に触れたと見えて、ズシンと顫《ふる》えるような衝撃が伝わったのである。
「捕獲網か……」
 瞬間、眼先きが、クラクラと暗くなったが、艇は何事もなく進んでいく。しかし、本艇は、陸上の警報器に続いている、浮標に触れたのであった。やがて、砂丘の向うが、赫《か》っと明るくなったと思うと、天に冲《ちゅう》した、光の帯が倒れるように落ちかかってきた。
「いかん。早く、それ、魚雷網が下りぬうちに、発射するんだ!」
 みるみる、陸から砲火が激しくなって、入江の中はたぎり返るようになってしまった。水に激する小波烟にも、ハッと胸を躍らすのであったが、まもなく闇の彼方に、鈍い、引き摺《ず》るような音響がおこった。
 艇が、グラグラと揺れ、潜望鏡《ペリスコープ》には、海面から渦巻きあがる火竜のような火柱が映った。本艇は、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」号の鑑底下を潜《もぐ》り、まず、第一の魚雷を発射したのであった。そうして、再び潜行し、今度は入江の鼻――距離約二千|碼《ヤード》とおぼしいあたりから、とどめの二矢を火焔めがけて射ち出したのである。
 この逆戦法に、敵はまんまと、思う壺に入ってしまった。砲|塁《るい》や他の艦が、それと気づいた頃にはおそく、本艇は、白みゆく薄闇を衝《つ》いて、唸《うな》りながら驀進《ばくしん》していた。
 艦側から、海中に飛び込む兵員、しだいに現われゆく赤い船腹、やがて、魚雷網の支柱にまで火が移って、まったく一団の火焔と化してしまったのである。
 かくて、戦艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は、タラント軍港の水面下に没し去っていったのであった。
「見ておくがいいよ。|モナ・リーザ嬢《フロイライン・モナ・リーザ》が、いまゲラゲラと狂《きちが》い笑いをしているんだ。ダ・ヴィンチ先生のせっかくの傑作も、ああもだらしなく、吹き出すようじゃおしまいだね」
 余は、安全区域に出ると、さっそく勝報を送ったが、すぐ打ち返してきた返電を見ると、唖然とした。

 ――貴官は目下、海軍高等審判に附されつつあり。

 かくて余は、七つの海を永遠に彷徨《さまよ》わねばならぬ身になった。
 祖国よ! 法規とは何か。区々たる規律が、戦敗《せんぱい》崩壊後に、なにするものぞ。

 読んでゆくうちに、法水の眼頭《めがしら》が、じっくと霑《うる》んでいった。しばらくは声もなくじっと見つめているのを、検事は醒ますように、がんと肩をたたいた。
「どうしたんだい、いやァに感激しているじゃないか。しかし、仏様のことだけは、忘
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