っしゃるの。これでも、きょうの狩倉《かりくら》へいらっしゃいますの」
 しかし、妻の手を振り払って、ジーグフリードは猪狩《ししがり》に赴いたのである。
 その森には、清らかな泉があって、疲れたジーグフリードが咽喉をしめそうとしたとき、突如背後から、きらめく長槍が突きだされた。そうして、肩にのこる致命の一ヶ所を貫かれて、ジーグフリードは、あえなくハーゲンの手にこの世を去ったのであった。
 やがて、その屍体は、獲物とともにクリームヒルトのもとに届けられた。しかし彼女は、悲哀のうちにも眦《まなじり》きびしく、棺車の審判をもとめたのである。
 それは[#「それは」は太字]、加害者[#「加害者」は太字]|惨屍[#「惨屍」は太字]《むくろ》のかたわらに来るときは[#「のかたわらに来るときは」は太字]、傷破れて[#「傷破れて」は太字]、血を流すという[#「血を流すという」は太字]……。
 はたしてそれが、ハーゲン・トロンエであった。クリームヒルトは、それをみて心に頷《うなず》くところあり、ひそかに復讐の機を待って、十三年の歳月を過した。ウオルムスの城内に、鬱々と籠居して、爪をとぎ、復讐の機を狙うクリームヒルト……。
 そうして、「ニーベルンゲン譚詩《リード》」は下巻へと移るのである。
[#ここで字下げ終わり]

 しかし、悲壮残忍をきわめたこの大史詩の大団円を、映画に楽劇に、知られる読者諸君もけっして少なくはないであろう。
 十三年間、一刻も変らずに、ジーグフリードにむけ、ひたむきに注がれるクリームヒルトの愛は、いかに人倫にそむき、兄弟を殲滅《せんめつ》し尽すとはいえ、その不滅の愛――ただ復讐一途に生きる、残忍な皇后とばかりはいえないのである。
 その故人を慕って、いまなお尽きぬ苦恋の炎が、この一篇を流れつらぬく大伝奇の琴線なのである。

 十八年の昔、トリエステにおこった出来事と、ジーグフリードの死……。また、ジーグフリードの致命個所とは……さらに、それをハーゲンに告げた、衣のうえの十字形とは……。そうしてまた、二人の女性のいずれが、ウルリーケにあたるか。すなわち、故人を慕っていまなお止まぬクリームヒルトか、それとも、|隠れ衣《タルンカッペ》に欺かれたブルンヒルデが、それか……。
 作者は、かく時代をへだてた二つの物語をつらね、その寓喩と変転の線上で、海底の惨劇を終局まで綴りつづけていきたいのである。

「ホホウ、『ニーベルンゲン譚詩《リード》』――世界古典叢書《ワールズ・フェマス・クラシックス》だな。これはラスベルグ稿本《マニュスクリプト》の逐字訳で、英訳の中では一番価値の高いものなんだが」
 と、ずしりと腕に耐《こた》える部厚なものを繰ってゆくうちに、ふと四、五頁、貼りついている部分があるのにぶつかった。
 それには、頁の中央から糸目にかけ、薄い水のような液体の流れた跡が示されている。
 法水《のりみず》はしばらくそれを嗅いでいたが、やがて彼の眼に、恍《う》っとりと魅せられたような色が泛《うか》び上がってきた。
「ねえ支倉《はぜくら》君、僕がもし、ボードレールほどに、交感《コレスポンダンス》の神秘境に達しているのだったら、この涙の匂いで、ウルリーケをいったいなんと唱うだろうね。これからは、牧場のごとく緑なる……嬰児《あかご》の肉のごとくすずしく……また荘重な、深い魂の呻《うめ》きを聴くことができるのだよ」
 その涙の跡は、片時もウルリーケの心の底を離れやらぬ幻――故フォン・エッセン男を慕って火よりも強く、滾々《こんこん》と尽きるを知らぬ熱情の泉だった。
 ところが、まもなくそういった感情も、好色的な薄笑いも彼の顔から消え失せてしまって、眼が、まるで貪《むさ》ぼるかのごとく、一枚の上に釘づけされてしまった。
 それは、英雄ジーグフリードの妻クリームヒルトが、夫を害しようとするハーゲンに瞞《たぶ》らかされて、刃《やいば》も通らぬ夫の身体の中に、一個所だけ弱点があるのを打ち明けてしまう章句《ところ》だった。

 As from the dragon's death wounds gush'd out the crimson gore, with the smoking torrent the worrior wash'd him o'er.
 A Leaf then 'twixt his shoulders fell from the linden baugh, there only steel can harm him; for that I tremble now.
【悪竜の命を絶ちし傷より、深紅の血潮ほとばしり出でたれば、かの勇士その煙霧のごとき流れに身をひたす。その時、菩提樹の枝より一枚の葉舞い落ちて、彼の肩を離れず、その個所《ところ》
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