。ああほんとうに、位置が変っているのですか……ほんとうに死体が……」
 と犬射の顔色はみるみる蒼白に変っていって、なにか心中の幻が、具象化されたのではないかと思われた。
 その流血は、ほんの一、二分前から始まったらしく、硝子《ガラス》の上を斜めの糸がすういと引いているにすぎなかった。けれども、死体の位置が異《ちが》ったという事は、以前の流血の跡に対照すると、そこに判然たるものが印されているのだった。
 最初仰向けだったものを俯向《うつむ》けたために、出血が着衣の裾を伝わって、身体なりに流れたからである。しかも傷口には、厚い血栓がこびりついていて、とうてい屍体の向きを変えたくらいで、破壊されるものではなかったし、また、気動一つ看過さないという盲人の感覚をくぐって、知られず、この室に侵入するという事も不可能に違いないのだった。
 してみると、死体を動かしたのは当の犬射復六か、それとも――となると、再びそこに「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」遭難の夜が想起されてくるのだ。
「慄《ぞ》っとするね。十時間もたった屍体から、血が流れるなんて……。だが法水君、結局犯人の意志が、あれに示されているのではないだろうかね」
 そう云って、検事が指差したところを見ると、その前後二様の流血で作《な》された形が、なんとなく卍《まんじ》に似ていて、そこに真紅の表章が表われているように思われたからである。
 この暗い神秘的な事件の蔭には、その潤色から云っても、迷信深い犯人の見栄を欠いてはならないのではないか。
 しかし、法水は無言のまま死体に眼を落した。
 八住衡吉は、肩章のついたダブダブの制服を着、暑さに釦《ボタン》を外していたが、顔にはほとんど表情がなかった。
 強直はすでに全身に発していて、右手を胸のあたりで酷《むご》たらしげに握りしめ、右膝を立てたところは俯伏しているせいか、延ばした左足が太い尾のように見えて、それには、巨《おお》きな爬蟲の姿が連想されてくる。
 創《きず》は心臓のいくぶん上方で、おそらく上行大動脈を切断しているものと思われたが、円形の何か金属らしい、径一|糎《センチ》ほどの刺傷だった。
 そして、その一帯には、砕けた検圧計の水銀が一面に飛散っていて、それを見ると、最初一撃を喰らうと同時に、検圧計を掴んだのが、ほとんど反射的だったらしい。そして、握ったままくるりと一廻転して、引きちぎった検圧計もろとも、背後に倒れたのではないかと推断された。
 そうすると、案外刺傷の位置がものをいって、心臓を突かなかったのも、事によったら突き損ねたのであって、あるいは三人の盲人のうちでか――とも考えられるが、一方には、兇器がこの室になく、というよりも不可解至極な消失を演じ去ったのであるから、その点にゆき当たると、依然盲人は、この血の絵に凄気を添えている、三つの点景にすぎないとしか思われないのであった。
 その時、片隅にいる一団に遠慮したような声で、法水は検事に囁《ささや》いた。
「見給え支倉君、これも、今までの定跡《じょうせき》集にはなかったことだよ」
 と検事に、赤※[#「魚+覃」、第3水準1−94−50]《あかえい》のような形をしたドス黒いものを示した。
 それは、創口《きずぐち》を塞いでいる凝血の塊だったが、底を返して見て、検事は真蒼《まっさお》になってしまった。
「どうだ! 細い直線の溝があるじゃないか。たしか針金か何かで、皮膚と平行に突っ込んだにちがいないよ」
「たぶんそうだろうと思うがね。そうすると、これほど手数のかかる微細画《ミニアチュア》をだ。しかも、犬射復六を前に、堂々と描き去った者がなけりゃならんわけだろう。
 ところが、この奥の室には、先刻《さっき》から朝枝という娘がいるそうだけど、こんな静かな中で、盲人の聴覚が把手《ノッブ》の捻《ひね》り一つ聴きのがすものじゃない。それにあの娘は、今朝この『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』には、乗り込んでいなかったのだ。
 そこで支倉君、この結論を云えばだ――絶対に盲人のなし得るところではないということ。それから、一人の妖精じみた存在が、どうやら明瞭《はっきり》しかけてきたという事なんだ」
 それから法水は、ウルリーケを手招いて、当時四人が占めていた位置を訴《ただ》した。
 すると、一々椅子を据えてウルリーケは右端から指摘していった。
「ここが、石割さんでございました。それからヴィデさん、次が主人、そして最後が、犬射というのが順序なのです。
 ところが、先ほども申しましたように、犬射さんは立ち上がってうろうろしていたのです、だが、ヴィデさんだけは泰然と構えておりました。
 また石割さんときたら、それは滑稽にもまた惨《みじ》めな形で、肩をぴくんと張った厳《いか》つさに似合わず、両膝を床について、ぶるぶる
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