》の上に横たわっている真黒な人影が見えた。
が、次の瞬間、ウルリーケはハッと立ち竦《すく》んでしまったのである。
そこには、彼女の夫八住衡吉が三人の盲人の間に打ち倒れていて、ほとばしり出る真紅の流れの糸を、縞鯛がもの奇《めず》らしげに追うているではないか。
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第二編 三重の密室《みっしつ》
一、アマリリスの奇蹟
「助《たす》からんね支倉《はぜくら》君、たぶん海精《シレエヌ》の魅惑かも知らんが、こりゃまったく耐《たま》らない事件だぜ。だって、考えて見給え。海、装甲、扉《ドア》――と、こりゃ三重の密室だ」
法水《のりみず》麟太郎《りんたろう》と支倉検事が「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」を訪れたのは、かれこれ午《ひる》を廻って二時に近かったが、陽盛りのその頃は、漁具の鹹気《しおけ》がぷんぷん匂ってきて、巌《いわ》は錆色に照りつけられていた。
ウルリーケとともに艙蓋《ハッチ》を下りるまでにはだいたいの聴取は終っていたが、何より海底という、あり得べくもない自然の舞台と謎の味が、彼をまったく困惑させてしまった。
のみならず、それはかつていかなる事件においても現われたことのない、驚くべき特質を具えていたのである。
と云うのは、現場《げんじょう》が扉《ドア》と鍵で閉《とざ》されていたにもかかわらず、艇内をくまなく探しても、八住を刺した凶器が発見されなかったのである。しかも周囲は厚い装甲で包まれ、その外側が海底であるとすれば、とりもなおさず、現場は三重の密室ではないか。
ウルリーケはこまごま当時の情況を述べたが、それはすこぶる機宜《きぎ》を得た処置だった。
彼女は、犬射復六の手で扉《ドア》が開かれると、すぐ前方の扉がまだ開かれていないのを確かめた。そうしてから、機関部員の手で、自分をはじめ三人の盲人にも身体検査を行い、なおかつ、その時刻が、五時三分であった事までも述べたが、ウルリーケはそれに言葉を添えて、
「それに、まだ訝《いぶか》しく思われる事がございまして。と申しますのは、まだ扉《ドア》が開かれないうちでしたけど、たしかにヴィデさんの声で、どうしてうろうろしているんだ。君たちは何を隠そうとしているのか――と妙に落着いたような、冷たい明瞭《はっき》りした声で云うのが、聴えたのでございます。
ですから、あの室に入って夫の屍体を一瞥《いちべつ》すると同時に、私の眼は、まるで約束されたもののようにヴィデさんに向けられました。
すると、あの方だけは、椅子の上で落着きすましていて、まるでその態度は、当然起るべきものが起ったとでも云いたいようで、とにかくヴィデさんだけには、夫の変死がなんの感動も与えなかったらしいのです。
まったくあの方には、底知れない不思議なものがあるのですわ」
とはいえウルリーケとて同じことで、夫の死に慟哭《どうこく》するようなそぶりは、微塵《みじん》も見られなかったのであるが、まもなく法水は、その理由を知ることができた。
現場の扉《ドア》は、鉄板のみで作られた頑丈な二重|扉《ドア》で、その外側には鍵孔《かぎあな》がなかった。というのは、万が一クローリン瓦斯《ガス》が発生した際を慮《おもんぱか》ったからで、むろん開閉は内側からされるようになっていた。
そして、扉が開かれると、そこに漲《みなぎ》っている五彩の陽炎《かげろう》からは眩《くら》まんばかりの感覚をうけ、すでに彼には現場などという意識がなかった。
そのせいか、眼前に横たわっている八住の死体を見ても、色電燈で照し出された惨虐人形芝居《グランギニョール》の舞台としか思われず、わけてもその染められた髪には、老|女形《おやま》の口紅とでも云いたい感じがして、この多彩な場面をいっそうドギついたものに見せていた。
ところがその時、死体とは反対の側に、一人の盲人が佇《たたず》んでいるのに気がついた。
それは、詩人の犬射復六だったが、そのおり屍体に何を認めたのか、法水は振り向きざま犬射に訊ねた。
と云うのは、なんともいえぬ薄気味悪い事だが、すでに死後十時間近く経過していて、傷口は厚い血栓で覆われているにもかかわらず、現在そこからは、ドス黒く死んだ血が滾々《こんこん》と流れ出ているのである。
その瞬間、この室の空気は、寒々としたものになってしまった。
犬射は美しい髪を揺すり上げて、割合平然と答えた。
「なに、私なら、今しがたここへ来たばかりなんですよ。艇員の方に手を引かれて――さあ五分も経ちましたかな。
それに、用というのが、実は向うの室にありまして、御承知のとおり、乗り込むとすぐこの騒ぎだったものですから、てんで艇長の遺品《かたみ》には、手を触れる暇さえなかったのです。
なに、私が死体を動かしたのではないかって
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