走艇《ヨット》倶楽部でも、シーワナカの支部に属しておりました。
ところが、決闘の結果同僚の一人を傷つけて、査問されようとするところを、艇長がUR―4号の奥深くに匿《かく》したのです。
ところが、ヴェネチア湾を潜航中不思議な事に、シュテッヘ大尉は忽然と消え失せてしまいました。
その際は、傷ついた足首を一面に繃帯して、跛《びっこ》を引いていたそうですが、それもやはり、士官室の寝台から不意に姿が消えてしまったのです。それ以後UR―4号には、妙に妄想じみた空気が濃くなってきて、まさに不祥事続出という惨状だったのでした。
そうすると、やれシュテッヘ大尉の姿を、目撃した――などという者も出てくる始末。しまいには全員が、転乗願いに連署するという事態にまでなったのですから、もはや当局としても捨ててはおけず、ついにUR―4号を鑑籍から除いてしまったのでした。
UR―4号の悪霊《ベーゼルガイスト》――そのように、おぞましい迷信的な力はとうてい考えられないにしても、その二つの事件は、偶然にはけっして符合するものでないと考えております。
儂《わし》はそれを、いかにも明白な、絶対的な事実として感じているのです。
そして[#「そして」に傍点]、もしやしたら[#「もしやしたら」に傍点]、シュテッヘ大尉が[#「シュテッヘ大尉が」に傍点]、そのときもまだ不思議な生存を続けていて[#「そのときもまだ不思議な生存を続けていて」に傍点]、友に最後の友情をはなむけたのではないか[#「友に最後の友情をはなむけたのではないか」に傍点]。つまり[#「つまり」に傍点]、艇長の遺骸を[#「艇長の遺骸を」に傍点]、海の武人らしく[#「海の武人らしく」に傍点]、母なる海底に送ったのではないか[#「母なる海底に送ったのではないか」に傍点]――というような、妄想めいた観念がおりふし泛《うか》び上がってきて、儂を夢の間にも揺すり苦しめるのでした」
老人はそこで言葉をきり、吐息を悩ましげに洩らした。しかし、そのシュテッヘ大尉事件の怖ろしさは、艇長消失の可能性をも裏づけて、妙に血が凍り肉の硬ばるような空気をつくってしまった。
続いて老人は、現在|維納《ウイン》において艇長生存説を猛烈に煽り立てているところの、不可思議な囚人のことを口にした。
「しかし、一方共和国は、ハプスブルグ家の英雄を巧みに利用して、今や復辟運動は、それがためにまったく望みないものと化してしまったのです。
と云うのは、かつて国民讃仰の的だったフォン・エッセン男を、忌むべき逃亡者としたばかりではなく、かたわら一つの人形を作って、それとなく艇長の生存説を流布しはじめたのでした。
それが今日、維納《ウイン》の噂に高い鉄仮面で、フォールスタッフの道化面を冠った一人の男が、郊外ヘルマンスコーゲル丘のハプスブルグ望楼に幽閉されていると云うのです。
そうなって、重大な国家的犯罪者らしいものと云えば、まず艇長をさておき外にはないのですから、その陋策がまんまと図星を射抜きました。そして、情けないことに墺太利《オーストリヤ》国民は、付和雷同の心理をうかうかと掴み上げられてしまったのです。
で、聴くところによると、その男の幽閉は一九一八年から始まっていて、最初はグラーツの市街を、身体中に薔薇と蔦《つた》とを纏《まと》い、まるで痴呆か乞食としか思われぬ、異様な風体で徘徊《はいかい》していたというそうなのです。
しかし、すでに海底深く埋もれているはずの艇長が、どうして、故国に姿を現わし得ましょうや。
まさに左様、艇長フォン・エッセン男爵の墓は、東経一六〇度二分北緯五十二度六分――そこに、いまも眠りつづけているのです。
そうして、ハプスブルグ家の王系は、彼の死とともに絶えたのですが、それを再び、栄光のうちに蘇《よみがえ》らせようとしても何事もなし得ず、今や戦史と系譜の覇者は、二つながらに埋もれゆこうとしているのです」
老人の悲痛な言葉が最後で追憶が終り、夫人は海に花環を投げた。
そして、一同は打ち連れ立って、岬を陸の方に歩みはじめたのであるが、艇長フォン・エッセンの死に対する疑惑は、いまやまったく錯綜たるものに化してしまった。
一同は、奇怪な恐怖に駆られて、夢の中をさ迷い歩くような惑乱を感じていたのである。わけても、その得体の知れない蠢動《しゅんどう》のようなものは、四人の盲人に、はっきりと認められた。
その四人は、一人として口を開くものがなく、互いに取り合った手が微かに顫《ふる》え、なにか感動の極限に達しているのではないかと思われた。彼らは明らかに、これから乗り込もうとする「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」に恐怖を感じているのだ。
ところが、当の「鷹の城」は、その時岩壁を縫い、岬の尻の入江の中で、静かに揺れてい
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